五街道雲助「電話の遊び」

2010年3月22日

3月20日 「雲助蔵出しふたたび」@浅草見番

春風亭朝呂久 一目上がり

柳亭市江   権助魚

五街道雲助  三軒長屋

~仲入り~

五街道雲助  電話の遊び

「三軒長屋」という噺、題はよく聞くし有名だけれど、噺そのものはそれほどやられる噺じゃない。理由は長い、登場人物が多い、サゲが割れている(バレている)からだとか。確かに、並の噺家さんがやろうとすれば、途中でダレて面白くもなんともない高座になってしまうのだろうが、そこは雲助師の描写力、およそ7人にもおよぶ登場人物ひとりひとりを巧みに描き分け、交通整理して、物語を立体的に見せている。

師が描き出す三軒長屋。高座の上に実物大のセットがあるのではないかと、錯覚してしまったのだ。もちろんよく噺のなかに登場する八っつぁん、熊さんが住んでる裏長屋じゃない。横丁、新路、小路と呼ばれる表通りにあったと思われる二階もあるましなもの。そこで雲助師の語る登場人物それぞれが、右往左往をする姿が手に通るように分かる。例えば、鳶の若い衆が頭の家にやってくる、二階へ上がって一杯やりだす。隣の妾宅から醜女の下女が出てきて、二階から若い衆が彼女を誂う。泣いて帰ってきた彼女をお妾は旦那ともに慰める。すると隣の道場ではヤットウの稽古が始まりドタバタし始めると、今度は鳶の頭の二階でも喧嘩が始まる・・・。

こんな風に一つ一つの逸話が順繰りに繋がりながら、高座の上の見えないセットの中で展開される。話が進むうち視線は自然とそれぞれの家、部屋の方向に向き出し、どんな些細な台詞のひとことからでも、それぞれの場面の印象が頭のなかに広がってくる。例えば鳶頭の政五郎と道場主、楠運平がヒソヒソ話をする場面で、追い出された楠の門弟たちが井戸端でボゥーっと立っているところなんて、ほんの数秒の地の台詞でしかないけれど、ちょっとマヌケな連中が物語から取り残された風のギャグで、ピンポイントで笑わせてくれる。もともと雲助師の語り口には、どんな些少な言葉、固有名詞を言っても、そこから聴き手に与える印象は非常に奥深い。「造作の悪い太った下女」というそれだけで、キャラの想像が聴き手の方にすぐに出来上がる。だからこそ、この噺では、鳶頭の内儀さんと伊勢屋のお妾さんのくっきりとした女としての性格の描き分けは秀逸。いかにも鳶の女房らしく、勝気でちょっと悋気強い内儀さんの伝法言葉と、いかにも隠居のお妾さんらしく、お淑やかさを振りまきつつ甘えた言葉の違いには、思わず白旗を揚げてしまった。

確かに一つ一つの逸話は面白いけれど、それらを単に繋げただけ、というこの「三軒長屋」に対する言葉も、あながち間違いではないと思う。だだ、それらの逸話の繋ぎ方、決して当代若手の噺家がやるスピード感は無かったかもしれないけれど(その意味で言えば、この噺を白酒師で是非聴きたい)、まるで昔のドタバタコメディー映画を見ていると錯覚させるような、噺全体の編集、構成、語り口は、如何にも芝居噺が得意な雲助師ならでは、と感じた。

ふたたび着流しで登場した雲助師。仲入り後の噺に選んだのは、ネタ出しされていなかった「電話の遊び」。もともと上方落語の「電話の散財」というのがあった。「動物園」「指南書」で有名な二代目桂文之助(1859-1930)のクラシック新作。それを二代目林家染丸(1867-1957)が改作し、当時の人気噺にした。いまではその二代目の系統である四代目染丸一門が高座で掛けているとのこと。雲助師が残している音源のマクラによると、東京では五代目の圓生(1884ー1940:六代目の義理の父親)がやっていたという。どういういきさつで、この噺をやるようになったかは、分からないが、五代目圓生は若い頃、力士として相撲巡業に行ったり、旅芸人の一座に加わったりしていたので、その時に覚えてきた話なのかも知れない。

世の中に、電話や自動車が登場し始めた頃。区会議員に立候補した若旦那、歳の癖に茶屋遊びが止められない父親に、世間体が悪いからせめて選挙期間中は、遊びを止めてくれるよう頼む。渋々受け入れる父親だが、それでも何とか茶屋に行きたい父親に、番頭は茶屋に電話を掛けて、電話口で贔屓の芸者に唄を謡わせることで我慢させようとするが・・・。

面白いのは、落語の常道からいうと、遊び好きの息子に堅物の父親、というのが定番だが、それが逆転している。気取った言葉で、若旦那がキザに眼鏡をスッと直す仕草など、妙に可笑しい。そして上方落語らしく、鳴り物入りで父親が踊りまくる場面は派手で賑やかな。途中、その時代の電話が混線しやすかったことがギャグになっていて、その混線を元に戻す合言葉ともいうべき「話し中」というひとことが鳴り物と掛け合いになり、リズミカルな噺のなかに一瞬ストップモーションになったかと、錯覚させるほどだった。サゲもこの言葉を使った突飛なオチかただが、それまたユニーク。

トリビアだが、途中、父親が番頭に「お前は緊縮派だからなぁ、私は政友会、もちろん『盛んに遊ぶ』会だけれどもな」という台詞があるが、これから考えると、噺の舞台は、財政緊縮の民政党と積極財政の政友会の対立が激しかった昭和初期のころの話だと推測される。また父親の名前、苗字が「村田」というのは五代目圓生の本名、村田源治から来ている。

いつもは三席やる「蔵出しふたたび」だったけれど、今回は大ネタと珍品の二席。もし噺の格というものがあれば、もちろん「三軒長屋」なんだろうけれど、甲乙つけるのは忍び難いが、今回は賑やかで楽しい「電話の遊び」にしたい。

10:48 追記:聴いた話によると、この日プログラムにはない三席目が予定されていたそうだが、「電話の遊び」の最中になった二度の携帯の着信音(しかも同じ人物)で気持がキレて、止めたという。この日は「三軒長屋」のときも別人物の携帯が鳴り、仲入りの時に、朝呂久さんが「シャレにならない」から、散々注意した挙句の話である。

桃月庵白酒「居残り佐平次」

2010年3月20日

3月19日 第16回「白酒ひとり」@内幸町ホール

白酒 「親子酒」

白酒 「転宅」

~仲入り~

白酒 「居残り佐平次」

久々の白酒師に、大いに笑う。

何時になく、マクラが暴走。エリカネタや圓生杯争奪の話題はもちろん、一番可笑しかったのは、シー・シェパードのこと。「偉い人から金もらって、やってんだから、チンピラでしょ」「あれじゃ『GO TO HELL』って書いたTシャツを来た看護婦と同じ」というギャグには、大いに同感。

白酒師がやる酒飲みの噺だから、「親子酒」が面白いのは当たり前、と、思ってはいけない。師の噺が面白いのは、登場する女性の存在、演じ方。「替わり目」の女房でもそうだけれど、「親子酒」の老妻が「体が熱くなるものをくれ」と言われて、「いやですよ、お爺さん、いい年をしてぇ」と言い返す、酔っぱらいの老父に呆れながらも、それとなく思える可愛らしさはなんともいえない。酒のおかわりをせがんで「キレイだよ」と言われた時も、照れ笑いする顔が浮かんでくるようだ。同様にこの日の「転宅」も純情なドロボウの一途な面よりも、粋なお妾さんのしたたかさの方が勝っていたけれど、それでも「親子酒」の老妻同様、女性のもつ丸みと優しさがそこはかとなく感じられる。そこが師の高座に深みを、あたえているのかも知れない。余談だが、「転宅」お妾さんとドロボウが自分の名前を名乗りあう場面があるが、今回は特別ヴァージョンで、円丈師と鳳楽師の本名がポロリと出る。「そりゃ言い過ぎだよ」とドロボウに言わせつつも、六代目の名跡を持っていちゃった、と毒のあるクスグリをお妾さんに答えさせた。

仲入り前に、どちらかというと十八番をやったのは、この「居残り佐平次」をやるための肩慣らし、といっていいかもしれない。2年前に師の「居残り」を聴いたマイミクさんの話によると、「長い噺に振り回されて、こなすのが手一杯」という感じだったということ。だが、今回の高座を聴く限り、全然そんな印象は受けなかった。全く正反対で、スピーディで、かつグイッ、グイッと客席を引っ張っていくグルーヴ感は圧巻。オリジナルのクスグリも控え目で、佐平次のクールな物言いが、カッコいい。若い衆相手に啖呵を切る言い立ては、これこそ、まさに胸をすく想いがした。

個人的には、邪道なのかもしれないが、「居残り」を聴くとき「幕末太陽傳」のフランキー堺が思い出されてしまう。あの映画のなかで、ひとこと「身体が悪くて療養するために品川へやってきた」と、わけを話す場面があり、堺の演技で佐平次の暗いその後が、観客に暗示させるけれど、同様に白酒師が、ほんの数秒だがここと同じ台詞を喋るとき、また「これだけありゃ、おふくろも暫くは暮らしていけるだろう」と仲間連中に銭を渡す、場面では、堺「佐平次」とは違った、自分の暗い未来に対する覚悟というか、決意のようなものが、スーっとこちらには伝わってきた。このことも、白酒「佐平次」のクールさを倍増させている。

サゲは噺を教わった古今亭右朝師のだという。若い衆から佐平次が一膳飯屋をやると聴いて、旦那が「ああ、だから一杯食わされた」というもの。右朝師は「どうってこないサゲだけど、なんかいい下げないかねぇ」と後輩の白酒師に言ったらしいが、よく知られている「ごま塩あたま」のサゲよりも、自分にはよく腑に落ちて、これはこれで良かったように思う。もっとも、先にあげたマイミクさんによると、このサゲは「向島の柳好」と呼ばれた、三代目春風亭柳好師のもの、という説もあるらしい。

「親子酒」で大師匠、先代馬生師のようにはグズグズに酔っ払えないといいつつ、そして「居残り」ではサゲを言い終えたあと、客席に向かって、その謂れを語りつつ、「何か他にいいサゲがあったら考えて下さい」といって頭を下げた白酒師には、この日の三席いづれも、久々に大笑いさせてもらった。

追伸:今回のBGMはこれでした。「きみの友だち」が心に沁みた。

ライヴ

ライヴ

吉原ものがたり、二題

2010年3月17日


D

「吉原」を読む。

言うまでもなく、吉原は落語の重要な舞台のひとつ。けれども、それは志ん朝師のCDにおける但し書き、「このCDに含まれている内容は伝統芸能の~」云々ということでもわかるように、あくまでも一種のパラレルワールド、夢舞台のなかの出来事であって、実際はどうだったのか、と考えると、わからないことも多い。落語ブームということで、「吉原遊郭」が単独で取り上げられた本や雑誌も、多いけれど、それらのいずれもが、よくある吉原の華やかな面を強調していて、イマイチ、わたしの望みを叶えてはいなかった。

以下の二冊は、五社英雄監督の映画「吉原炎上」(1987)の原作とされているが、五社の映像がもつ、「鬼龍院花子の生涯」の印象そのままの煽情的でスキャンダラスな面は影を潜めている。読み進めていくうち、これには正直、驚いた。

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斎藤真一(1922ー1994)著「吉原炎上」(文春文庫 絶版)は映画の公式原作本のうちの一冊(もう一冊は彼の画集である「明治吉原細見記」)。ものがたりは、作者の祖母である没落士族の娘、久野が、故郷岡山から花魁として吉原に入って、お職(花魁のトップ)まで上り詰め、身請けをされて結婚、故郷に帰るまでを描いた、日本画家として著名だった斉藤の画もふんだんに含んだ画文集。斉藤自身の文章は、久野の生涯を実母からの聞き書きで、あくまでドキュメンタリー風に書かれている。タイトルとは裏腹で、映画化されたものとは正反対で、荒々しさや際どい場面はすっかり影を潜めている。そのなかには久野も含め、周囲の苦海に沈む花魁たちの悲しみがリアルに描かれているけれど、一方で幻想的な斉藤の筆使いはそれらを柔らかなオブラートでつつみながら、祖母である久野を含めた、花魁たちへの作者の視線は限りなく、優しい。

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もう一冊は、近藤富枝(1922ー )著「今は幻 吉原のものがたり」(講談社文庫 絶版)。こちらは原作本ではないけれど、近藤が監修者として五社の「吉原炎上」に参加していることから、この本に含まれている逸話が映画に採用されている。近藤は、明治の中頃に角海老楼に下働きの女中、下新として働いた娘、小島ふよの話を昭和58年に聞き書きしたもの。

興味深いのは、明治のころの一般庶民が、今のいう「セレブ」を見るような気持で吉原の花魁たちを見ていたこと。貧しい裏長屋の小さな女の子たちも「花魁のようにきれいになりたい」というし、女中になった「おふよ」でさえ「もうすこし器量がよくて、田舎まるだしでなかったら、花魁になりたかった」と語っている。明治時代の極貧の女性たちが憧れるのは、表面的ではあっても、豪華であでやかな花魁の生活だっただろう。もっとも、これは当時の封建的な家制度のなかでの、夫や姑からは「性生活付きの女中」扱いされた彼女たちの密かな願いだったのかもしれない。

もちろん江戸から明治に時代が変わるなかでの、吉原の変容も描かれている。明治維新後、急激な西洋化で、楼閣も三階、四階建ての西洋風建築になった。顔見世も絵から写真へ、おふよが働いた角海老楼には時計台があったり、洋装をした花魁も登場したという。反対に「おいらん言葉」が廃れたり、牛太郎による客引きが、小店、中店はかりではなく、大店に波及した。映画「吉原炎上」の背景である、明治44年の大火を初めとする災害が、吉原の変質に拍車をかける。吉原外の私娼街との対立や、これも映画に登場するけれど、廃娼運動が一層激しくなる。結局、大正12年の関東大震災を境に、江戸の味わいを残す吉原は完全に亡くなった、と近藤は書く。

また本の後半、志賀直哉、高村光太郎、里見紝らの吉原体験も書かれている。彼らは当時の裕福層の息子たち、落語の噺でいくところの「若旦那」なのだが、少なくとも花魁からみれば、若旦那との付き合いは、当たり前のことかもしれないが、あくまでもビジネスであり「ラブゲーム」であったこと。花魁たちをマドンナとして見ていた若き文化人の、それを知った時の落胆は生活を荒れさせもした。なかでも彼らのひとりが、自分が恋焦がれた花魁が年季を終えて、吉原の外であったとき、あまりに容姿が平凡な女性で、やっぱり吉原のことは夢であったと悟る場面は印象深い。

逆に、吉原での心中事件もかなりあったことを記している。両者合意の上での心中、いわゆる情死もあるが、一方が想いを募らせた無理心中も多かった。男が原因の場合は、たいてい職人か小商人。想いが募って花魁に入れ込むあまり、多大な借金や店の金を使い込んでの上の刃傷沙汰である。すくなくとも「幾代餅」や「紺屋高尾」のような噺は、現実とはかけ離れた、それだからこそ当時の男たちにとっては、まさしく夢物語であったことだろう。反対に花魁が引き起こすのは「美人ではない、お客が少ない、借金がある、新造に馬鹿にされる、遣手に怒られる、内証の機嫌を損ねる」花魁、そして彼女は生きていても仕方がない、と考える。しかし独りでは死ねないので、誰かを引き込んで・・・・の挙句。まるで「品川心中」の世界だ。

両方とも資料性も十分にあるが、「吉原」という場所の、いままでとは別のイメージを湧かせるには、いい本だと思う。

吉原炎上 [DVD]

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吉原炎上 (文春文庫)

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今は幻 吉原のものがたり (講談社文庫)

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浅草仲見世・九重「あげまんじゅう」

2010年3月11日

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本所吾妻橋から、浅草へ。

もうお腹いっぱい、さすがに夜勤明けで腹がたまると、歩いていても眠くなってくる。でも、甘いもの、甘いもの。ということで、仲見世は「浅草寺から三軒目」が謳い文句の九重の「揚げまんじゅう」を戴く。

人気は人形焼と二分しているかも知れないけれど、出来立てが美味しいと、わたしがおもうのは、やっぱりこちらの「揚げまんじゅう」。きょうは黒ごまのこしあんまんじゅうを2つ、買う。

前歯を立てながら食べるとまわりの、サクッ、フワッとした、ころもの歯ごたえと、ごまの香ばしさ、ほのかにつぶあんの甘さが口のなかの小宇宙に漂う。前夜からのなごり雪も止んで、さっと晴れ渡った空の下では、それも心地よい。

店先からちょっと離れて、向かいの伝法院の柵の前で、まんじゅうをほうばっていたら、地面におちたまんじゅうの、ころもを狙って鳩がさっそくツツきにやってくる。それを見つけて、九重の店の女の子か、「鳩に餌やらないで下さいね」と言った。

九重

食べログ九重

本所吾妻橋・キッチンイナバ

2010年3月10日

若鶏のソテー・カレー風味

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昨日は夜勤明け、初めて都営浅草線に乗って、押上をこえて、青砥まで行った帰り、「キッチンイナバ」で昼飯を食べようと、本所吾妻橋で降りた。ご存知のように、「キッチンイナバ」は柳家さん喬師の兄上が営んでいる洋食屋さん。

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駅を降りて地上に上がると、まず眼の前に現れるのがこれ。デカイ。これは実物を見ないと実感しない、と思う。すごくモダンというか近未来的な、何か間近にロケットを観ているような錯覚に陥る。それがそんない違和感を感じない、感じさせたいのは、スカイツリーのあまりのデカさのせいなんだろうか。これは、昭和30年代に初めて東京タワーを観た人たちと同じ感覚かも知れない。

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「キッチンイナバ」は本所吾妻橋の駅を上がって直ぐ、交差点の角にある。外見はどこにでもある街の洋食屋さん。お昼正午ちょっと過ぎになかに入ったけれど、ほどほどの広さの店内にしては、先客は3,4人ほど。このマッタリ感も、またよし。

いぜんにどこかのサイトで、ここの自慢はオムライスと聞いたことがある。メニューを見ていてどうしようか、と悩む。そのうちお冷とガラスの灰皿がすーっと出される。灰皿が何もいわずに出されるところなんて、いかにも下町だなあ、と感じる。

選んだのがこの日のランチ。「若鶏のソテーカレー風味。ライス・カップスープ付」890円

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付け合せは、オニオンリング、マカロニサラダ、ワカメのサラダ。カレー風味というだけあって、カレーのソースが出てくるのかと思ったのだけれど、実際にはトマトソースが絡んだふつうの鶏肉のソテー。肉にカレー粉をまぶして焼いているのだろう。口のなかに含むと、カレーの風味が、ソースと相まって、目立たず、それでいてしっかり自己主張しているような感じ。そのバランスが絶妙で、言うこと無し。そのうえボリュームも十分で、しっかりと下町の洋食になっている。男性はもちろんのこと、女性でも美味しく戴ける。

本所吾妻橋、といえば、落語ファンならたいていは、何かロマンティックな雰囲気を感じるかもしれないけれど、わたしはこの日、しっかり美味しい昼食を戴きました。このあと、吾妻橋を渡って、浅草へ。

次回の「聖地巡礼」、もしあるとすれば、銀座・福家書店、かな?(笑)

キッチン イナバ

食べログキッチン イナバ

柳家喜多八「二番煎じ」

2010年3月9日

3月8日 柳家喜多八独演会 「喜多八膝栗毛 春之風」@銀座・博品館劇場

春風亭一之輔 「長屋の花見」

柳家喜多八  「鈴ヶ森」

柳家喜多八  「お見立て」

~仲入り~

鏡味仙花    太神楽曲芸

柳家喜多八  「二番煎じ」

久々の落語。

会のまえに、人と会っていて、博品館劇場に着くのが、開演ギリギリになってしまった。客席に入っていくと、もう出囃子が鳴っている。この会ははじめてで、当然、前座さんが開口一番を勤めるものだと思っていたが、なんといきなり一之輔さんが登場した。間にあってよかったよ。

一之輔さんはこの会場が初めだそう。ホリゾントっていうんですか、これがいいですねぇ、上が淡紅で真ん中が黄色で、下、いま敷いてある毛氈が緑色で、まるで菱餅。と、軽く笑わせる。

春らしい噺ということで「長屋の花見」。開口一番といってもミッチリやった。後半の同じようなギャグがダラダラ続く場面でも、ちっともダレず、聴き手を飽きさせないのは、一之輔さんのセンスのよさをしめすもの。これが開口一番というは贅沢で、あるいみ、いかにも銀座でおこなわれる落語会らしい。

そして喜多八師、登場。柳之宮喜多八殿下、などといわれていますが、愛子様も大変ですねぇ、とマクラで笑わせる。一席目の「鈴ヶ森」は師の鉄板ネタ。一之輔さんもよくやる。でも、師の高座とほかのひとの高座の決定的な違いは、師の鈴ヶ森は、泥棒の親分とマヌケな子分とのあいだに、「衆道」の匂いが漂うところ、と、わたしは思っている。親分が、おめえは才能がないから、足を洗っちまえ、といっているのに、親分子分の盃を交わしたんじゃねぇですかい、もうちっと置いといてくだせぇ、なんて子分が哀願するところなぞは、子分の親分への「好意」以上のものを感じる。それは、後半、鈴ヶ森の藪の中で、子分がケツの穴に筍が刺さってしまい、親分に手を握ってもらい抜いてもらうところの、手の握りぐあいでも同様。筍を抜いてもらったあと、「ケツの穴がひりひりするので、親分のつばをつけてください」というギャグにも、それを感じる。

二席目は「お見立て」。事前にネタ出しされていた噺だが、この日は前座さんがいなかったせいか、仲入り前にすでに二席ということで、多少端折りぎみ。たしかこの噺は、雲助師から教わったはずだけれども、喜瀬川が病気だと杢兵衛大尽に喜助が伝える場面や、喜瀬川が嘘泣きをする仕草として、正座をしたその下に鉄扇をおいてグリグリすればいい、と喜助に教える場面などはカットされていた。ということで、この日の「お見立て」は、喜瀬川のいかにも花魁らしい我侭や、それに右往左往する喜助の可笑しさよりも、杢兵衛大尽の、いわば一途な思いというのが、どちらかというと話の中心だった。

仲入り後は、仙花さんの太神楽。傘、バチ、鞠、そして五階茶碗。ご本人は、最近、やっと女と思われるようになりました、といっていた。そういえば一昨年の圓朝まつりでみたときは、高校の体育会という印象があったけれど、いまではコメディアンヌとしては、すでに十分な雰囲気。客席とのやり取りも堂に入っている。とは、いっても、鞠の渡しなど、まだヒヤヒヤするところもあって、カワユイ。

そしてトリの高座。ネタ出しの噺はすでに仲入り前にやってくれるか、と思っていたら、「二番煎じ」。

前半の夜廻りのときの寒さと、後半の猪鍋を囲むときの暖かさの、対照がなんといっても白眉。前半の台詞ひとつひとつが寒さに震えているのが、客席にも十分伝わってきて、この日の寒の戻りを思い出させるものだった。そして猪鍋を囲む場面。猪肉を食べるときは「モグモグ」、葱を食べるとは「ベチャベチャ」。食べ方のちがいを、さっとやってしまうのも師匠の隠れた藝だと思う。役人がやってきて、鍋を隠そうとするときのギャグだけが可笑しいのではない。そんな目立たない仕草で、高座に見入っている観客の空腹感を増幅させるのも、師の藝の成せる業だろう。

そしてサゲ近く、コワイ役人が登場。これがいかにも喜多八師の演じる侍らしくていい。こころは酒を飲んで笑っているけれど、眼は決して笑っていない。最後の最後に、こういう人物を登場させることで、物語的にグダグダなった流れを、キュッと引き締める。ここが実にカッコいい。

このところ、いろんなことで気分が乗らなくて、落語もあまり聴く気になれなかったのだが、こういう時は、ベテラン真打のキチッとした高座を聴くと、気分がすーっと高揚する。この日の喜多八師の高座は、まさにそうだった。マイミクさんの代打で行った落語会だったけれど、聴きに来てよかった。

根津・茶房はん亭「芋あんあんみつ」

2010年3月3日

根津の杉むらで「ねぎ南蛮そば」で食べた後で。

本当は同じ根津の「芋甚」に行こうと思ったのだが、道に迷ってしまった。どうやら不忍通りを反対方向に向かったらしい。ちょうど御徒町に向かう方向だったので、このままぷらぷら歩くことにした。

そこで見つけたのが、「茶房はん亭」。

建物全体を見渡すと、ずいぶん古い日本家屋。登録有形文化財に指定されているらしい。あとで調べたら有名な串揚げ屋「はん亭」の喫茶部門だった。「はん亭」自体は茶房の裏にあるようで、表の串揚げ屋が裏通りに面しているのが不思議だった。しかし喫茶部門で、古いといっても、通りに面した側は今風に和を生かした作りになっていた。

昔の甘味処を洗練された外見だったが、ちょっとなかは狭い。四人掛けテーブルは無く、二人掛けと一人掛け。一人掛けテーブルのがあるのは、わたしのような人間にはいいが、そこに五人も店員さんがいるものだがら、すこしゴチャゴチャしているような感じがする。

注文したのは、期限限定「芋あんあんみつ」。

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ごくふつうのあんみつ。ごくふつうの味。

見た目、何だか果物が貧相。とくにイチゴ。もう少し見栄えのいいものをのせた方がいいのではないか。期間限定という芋あんは、家庭的な味。子供の頃、母親が作ってくれたものを思い出した。

わたしが店にいるあいだ中、若いカップルがずっと大声で喋っているのが気になった。そうなると声だけでなく、彼らの物腰も気になってくる。とくにオトコの方。肘をテーブルについて、片手で箸を使う。箸で食器をならす、足を組んで貧乏揺すりを繰り返す。こっちの気持が落ち着かない。

それと店員さんの接客。丁寧なんだけれども、お節介しすぎではないか。おそらくこれが今のやり方なんだろう。ベタベタしすぎて、まるで子供に対する受け答え、と、わたしは感じた。もうちょっとザックリとしたサービスでもいいのではないか。店の中が狭いせいもあって、鬱陶しくも感じた。

あくまでも気持の問題だろうけれど、美味しい甘味が、単に甘いだけでなくあっさりと甘さがあるものでもあるように、甘味処の接客もあっさりとしたほうが味があるように思う。

2010年2月27日 根津・茶房はん亭「芋あんあんみつ」 600円

根津・杉むら「ねぎ南蛮そば」

2010年3月2日

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千代田線根津駅、根津一丁目交差点ちかく。

この日は寒くて、温かいものを注文。ねぎ南蛮そば。

それにしても、なぜ「南蛮」というのかな。

ちょっと調べてみると、昔、肉や魚を唐辛子で煮たものを

総じて、「南蛮煮」といったらしい。

また葱のことを「南蛮」といったということ。

それは葱の名産地が、関西の難波で、

それが転じて「南蛮」になったとも聞いた。

それじゃ「ねぎ南蛮そば」は、ねぎねぎそばじゃないか。

ま、そんなことはどうでもいいや。

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ひさしぶりに底冷えする休日の午後にはちょうどいい。

つゆは当然、黒く濃い。甘辛。でもそれほどきつくない。

葱が四つ、濃いつゆとしっかりとした蕎麦のうえに

四つ、ひとつひとつ、のっている。

もう今度の冬まで聴くことはないだろう、

「二番煎じ」の噺を思い出しながら、

味わい、つゆまで全部戴く。

店は最近、開いたらしい。

内装は蕎麦屋とは思えないほどモダン。

ボサノヴァ・ジャズが静かに流れて、お洒落ではある。

お品書きは、シンプルで、それこそお品書きだけだった。

店員さんも、家族というより仲間同士で店をやっている、という印象。それはそれとして、折角静かな店の中で、彼らが厨房の奥で、お喋りをしているが目立って聞こえた。

2010年2月27日 ねぎ南蛮そば 800円

柳家喬太郎「文七元結」

2010年2月28日

2月27日 東京のお酒と江戸文化(落語)を楽しむ会@有楽町・外国人特派員クラブ

柳家喬太郎 「文七元結」

この会は、東京都内および都下にある酒蔵8社が毎年行っている、東京で作られている酒を紹介するつどいで、今年で15年目。いつもは売り出し中の二つ目さんが20分ほどの高座を一席やるのだそうだが、今年は節目で喬太郎師が登場、「文七元結」をやった。

以前にもこの会にゲストで呼ばれたことがあったそうで、その時のことを思い出しテッキリ20分ぐらいの噺でいいもんだと思っていた、とマクラで語る。ところが上に書いたように今回は節目の年、40分ミッチリやってくれと主催者の人に言われて慌てたという。ホントかどうかはわからないが。

喬太郎師は今回のような、どこかでゲストで呼ばれて一席やるとか、地方の学校公演とか、断然いい。師の調子の良さを判断するのに、ワタシ的にはマクラをサッサと切り上げて噺に入る、というのがあるのだが、今回もそうだった。

開演前、この会の参加者は会場に用意された吟醸酒をチビチビやっていたのだが、師匠は早速それをチクリ。

「ようはこの会場で今日、シラフなのはわたしだけ」

「主催の方からは40分やってくれといわれましたけど、10分でもいいんですよぉ、今日の主役はおさけですからねぇ」

などと喋りつつ、会場のお客さんを弄りながら、すーぅと噺に入っていった。

以前、にぎわい座の勉強会で師匠の「文七元結」は聴いたことがある。その際は、長兵衛が佐野槌の帰りに文七と出会うのではなく、それは、借りた金を真面目に働いて、一年後の大晦日に返すというヴァージョンにしてあった。また「文七元結」という噺が持つ、殊更江戸っ子の心意気を強調する面は極力抑えられていた。そのため文七の間違えが分かったあとの、お久とおみつ、長兵衛との和解や、一度あげた金を返す返さないのやり取りの場面で、聴き手が溜飲を下げる部分が少なく、物語が持つ人情噺としてのカタルシスがあまり感じられないものだった。

それと反対に今回は正調「文七元結」。文七に五十両をやるのは、佐野槌からの帰りの吾妻橋のうえ、だ。

ただし独特の演出もある。全編において長兵衛の独白が多いため、長兵衛の心の動きが如実に伝わってくる。博打に負けておみつに当り散らす場面。佐野槌の女将から説教されてふて腐れる場面、吾妻橋の上で文七との男気を露にする場面、そして終盤の達磨横町での事件解決、と家族の和解の場面。その中でも特に後半、何回も「江戸っ子」という言葉を発したのは、にぎわい座の、いわば「喬太郎版文七元結」では見られなかったもので、その点ではさん喬師の「文七」を彷彿とさせる「正調文七元結」といってよい。しかし細かいことはともかく、語り口や言い回し、設定に現代的なニュアンスが感じられるのが、今回のこの会に集まった、割合的に喬太郎師の落語を初めて聴く、あるいは喬太郎師の高座を中心に落語を聴いている人には良かったのかも知れない。具体的にいうと、ふつうの高座では、文七が近江屋の番頭と吉原について問答をする場面や、終盤の近江屋と長兵衛のやり取りでのギャグを大胆に省略したのも、「文七元結」という噺の主題を明確に聴き手に伝える方法となったのだろう。

まあ、こんなことは兎も角、こういったゲスト扱いで高座に上がるときの喬太郎師はホントウに楽しそうに喋っているのが、聴いているこちらにもヒシヒシと伝わってくる。チカラが抜けたというか、気負いがないというか、すくなくともヘンなストレスから解放された師の高座がそこにはあった。

高城高「墓標なき墓場」

2010年2月27日
高城高全集〈1〉墓標なき墓場 (創元推理文庫)

高城高全集〈1〉墓標なき墓場 (創元推理文庫)

久しぶりに日本人作家の書いたエンターテイメント小説を読もうと、佐々木譲の「警官の血」上巻(新潮文庫)を買ってみた。

これが面白くない。読んでいて、気持が物語のなかに入り込んで行かないのだ。書割のような情景描写と深みの全く感じることの出来ない人物像が、読んで100頁足らずで、この小説を読み続けることを断念させたのだ。

そこで他に何かないかと探してみたとき、積読本のなか見つけたのが、この高城高(1935- )の二つある長編のひとつ。ちなみに彼は長らく作家活動を休止していたが、創元推理文庫から自身の全集が出版されたことを機に今世紀に入って活動を再開した。その、長編といっても長さ的には中編といったほうがいいハードボイルド小説に、久しぶりに日本人作家、しかもエンターテイメントの分野で堪能させてもらった。

舞台は昭和30年代初めの北海道、釧路。ある漁船の衝突沈没事故を追っていた地元紙の記者、江上はある日突然左遷されてしまう。3年後、自分を左遷に追い込んだ情報提供者の不審死を知り、自分を追い込んだ釧路の闇の世界に舞い戻っていく。

夏でさえ、うすら寒い北辺の地の雰囲気がたっぷりと描かれている。肌をじっと濡らす深い霧の中から、ぬっと出てくる人間たち。欲望を抱え込んだ土地の有力者や女たち、サンマ漁で活気付く漁師、港の喧噪と寂寥、そして暴力。場末の呑み屋の有り様や舗装されいない街道を走っていく乗合バスの描写など精緻で、少なくとも読者の想像力を喚起させずにはおかない文体である。

もっとも「墓標なき墓場」というタイトルは読後から振り返ってみると、いかにも大げさだが、これには長編第一作となる高城のハードボイルド小説への意気込みがある。おそらく本人はアメリカとは違って、私立探偵という職業が現実社会の中で現実感を持たないのがわかっていたし、また自身が当時北海道地元紙の新聞記者であることから、こういう題材を選んだのだろう。

とりたてて書くようなことでもないけれど、たしかに作家本人が言うように、中編ゆえのストーリー的貧弱さが見受けられるところもあるし、人物造形もチャンドラーやマクドナルドといった当時読まれていたハードボイルド作家の雰囲気が色濃く感じるけれど、昭和30年代初めと同時代に書かれたということを割り引いても、その時代の空気、当時まだ国境辺境の地と呼ばれていた北海道は釧路、根室、網走の風土を繊細に描くことの出来る筆力は、それから50年をも過ぎた日本人作家には見いだすことが出来ない。上下巻に渡って時代背景の説明で水増しされた小説を読むよりは、この200頁あまりの、今まですっかり忘れ去られた日本のハードボイルド小説黎明期の傑作を味わうほうが、ずっといい。

この作品が発表された当時、前後して書かれたエッセイに高城はこんなことを書いている。昭和30年代に人気のあったハードボイルド小説は、終戦後のアメリカ文化の輸入と同様、単なる模倣であり享楽主義、利己主義の代名詞に過ぎない。もともとハードボイルドという生き方は、機械文明やそれより大きな現代のメカニズムへの大きな反抗であり、たとえそれに押しつぶされても、その中で失われていく人間性を取り戻そうとする生き方を書き表すことだ。ヘミングウェイ信者でもあった高城はこのように書いているが、このことが今の時代の、「警官の血」も含めた、日本のハードボイルド小説に欠けているものだと思う。