12月26日 「さん喬と二楽の会」@東京・代々木カタログハウス本社ビル
小んぶ 子ほめ
喬四郎 くわばら(黒田絵美子作)
さん喬 抜け雀
二楽 紙切り(桃太郎、鍋焼きうどん、虎、さん喬師、凧揚げ、藤娘)
さん喬 掛取万歳(狂歌~義太夫~喧嘩~芝居~三河万歳)
~仲入り~
(途中退場)
今年はどういうわけか、「師走の噺」といわれて「文七元結」や「芝濱」をあげるより「掛け取り」を上げるひとが多い。もちろんこれはあの「三橋三智也ヴァージョン」のおかげだが、落語を聴いているひとたちの気持ちのなかにも、今年は明るく楽しく賑やかな噺を聴いて新年を迎えたい、という思いもあるのだろう。わたしも今のこの状況でなかったら、やっぱり「文七」や「芝濱」より「掛け取り」を聴きたいと思ったことだろう。
このカタログハウスでのさん喬師の落語会は毎年、この師走に行われているらしい。わたしは初めて行ったが、係のひとたちの対応は大人で、普段、落語会を開いているプロも見習って欲しいという態度だった。客席も、開演前に列んでいるわたしたちを観たさん喬師が、「いつものご常連さん方で」といったように、マッタリした雰囲気を持つ人たちなのが、この会の特徴らしい。
小んぶさんの「子ほめ」のあとは、喬四郎さん。あいかわらず空気を読めない(読まない?)師匠をネタにしたマクラの後は、その師匠もやったという黒田絵美子さん作の「くわばら」。いつも人から厄介がられている雷神が得た仕事は、人間の自殺を助けること。とある自殺志願者の自殺をたすけることになるが・・・。新作落語のストーリーとしては面白いけれど、噺の構成が悪いのか、喬四郎さんの語り口がダメなのか、時折、彼の高座に対するあきらめにも似た笑いは起こるものの、途中でオチがバレてしまって、そのことがまた笑いを呼ぶという、なんだかよくわからない高座になってしまった。
さて気分を変えて、さん喬師の一席目。去年は「百年目」をやって、もう一年が経ったのですねぇ、と師は感慨深く語った。それにしても、この日の「さん喬通信」はいつもと違った。「さん喬通信」というのは、いつも寄席や他の落語会で師が語る、季節のうつろいや日常のささいなことを語った詩的なマクラのことで、ある落語ブロガーさんが名付けたものだが、この日は詩的というより、個人的なことをとりとめもなく話したという印象が強かった。
それは「抜け雀」のマクラでの、四国霊場巡りの話だった。実兄を亡くされたことをきっかけに仕事で訪れた四国で霊場巡りを思い立つ。東京への最終便に間に合う距離の寺へまず行ってみようと、徒歩とバスで行ったものの、帰りのバスがなくなってしまった。運良くタクシーを拾うことが出来、運転手に寺を訪れたわけを話した。するとその運転手は「近くにもまだお寺さんがありますから」とメーターを倒さず、2つの寺を案内した上、おいしいうどん屋にも連れて行ってくれたという。結局、六年をかけた霊場巡りをしたという師の感慨は、お兄さんへの思いとともに語り口の合間合間に感じられる。そして、もちろん極端に客席をシンミリさせることなく一席目の「抜け雀」に入っていく。
本題に入れば、この噺で陽気にならないはずはないだろう。さん喬師は、冒頭の浪人絵師が宿屋に入る話はカットして、その2階の浪人が、金があるのないのという宿屋夫婦のひと悶着から始めた。ふつうなら昔の交通手段、駕籠かきの話をマクラで振って、それがオチにつながっていくのがこの噺の本寸法なのだろうが、師は噺の見せ場、面白いところ、可笑しいところから始めたことで、噺のテンションを高めていく。師の描くこの噺のキャラクターは、滑稽噺らしく単純明快。浪人絵師は豪快快活、宿屋の女房は、いつも一文無しばかりを泊める亭主に愛想を尽かして、ほぼなげやりに話をするし、浪人絵師の父は枯れた味わいを保つ盆栽のような落ち着きを持っていた。なかでも宿屋の亭主は、どこまでも小心者で女房に頭が上がらず、浪人絵師にも強く出られると臆病になるが、ちょっとしたことろで怒りを露わにしてしまう、まるで「ピンポンダッシュ」のような人物造形が可笑しくてたまらない。
二楽師匠の紙切り。いつも寄席と同じように、最初に切り試しで「桃太郎」を切り、あとは客席のリクエストに応えていく。なかにはマイミクSさんがリクエストした「さん喬師匠」も入っていた。いつかどこかの落語会で同じく二楽師が「さん喬師」とリクエストされて困惑し、しまいにさん喬師自身が袖からでてきて「俺だよ!」と自分を指さしたエピソードを思い出した。その場にいあわせたSさんに言わせると、その時よりは出来が良かったらしい。
そしてさん喬師の二席目はネタだしされている「掛取万歳」。もちろん、といっては失礼だが、本寸法。狂歌~義太夫~喧嘩~芝居~三河万歳と、ミッチリやっていく。中でも可笑しいのは義太夫と芝居。ハメ物入りのさん喬師の高座は初めてだったが、義太夫の節も芝居の仕草も、素養としての根っこがしっかりしているからこそ、「掛取万歳」がパロディとして成り立っているのだろう。中でも芝居の場面は滑稽ながらも優雅で、芝居の要素を含んだ高座を十八番とする一朝師、雲助師、正雀師にも劣らないだろう。こういった芝居噺、芝居の要素を含む噺は、体力も使うし大がかりなので、そう度々高座に掛けることのできる噺ではないのだろうが、もっと聴きたい、観たいと思った。
仲入りは午後4時10分過ぎ。あとは二楽師の紙切りとさん喬師のコラボレーションがあったのだが、6時から駒込・角庵で師匠の五番弟子、喬之進さんの会があり、間に会わないと困るので残念ながら途中退場。