大切なのは、落語的グルーヴ、心地よい波動、グッドヴァイブレーション。
噺家の余芸としての著作物には関心がないうえ、自身の本を高座で宣伝するなど、全くもって興ざめだと思っているのだが、週刊文春最新号のこの座談会だけは別。興味をもって読んだ。以下の落語系ブログでも取り上げられている。
柳家喬太郎と立川談春の対談 落語の噺とネコの話/ウェブリブログ
噺の話 談春・喬太郎・憲一郎 特別座談会 週刊文春創刊50周年記念号
少なくとも「落語特集」と称する記事をメインにした雑誌よりも、この週刊文春の座談会に何倍もの価値を見いだせるのは、いまだに「志ん生」「文楽」「圓生」「小さん」「志ん朝」を取り上げなければ売り上げが見込めない、と思い込んでいる「落語素人」の編集者よりも、やはり堀井さんが絡んで談春師、喬太郎師の本音を引き出しているところだろう。ジャマさんの書いているように、あくまでも談春師は自分のペースで持論を語って、喬太郎師はそれに気を遣いながらもツボを押さえた考えを話す、この調整役、舵取りを堀井さんがうまくこなしている。
興味深かった発言。まず落語ブロガーのこと。喬太郎師は「楽しければいいんじゃないですか、そんなに論じなくてもと、ちょっとおもいますね」と発言。以前、落語教育委員会で「私も素人だったらブログを書いていると思いますね」と言ったことを思い出してしまった。やっぱり気になるのだろうか。
そして落語の黄金時代、昭和20年~30年代と現在の関係について。喬太郎師の発言として要約だが「ネタとしては継承しているけれど、落語そのものはそれぞれの時代の名人上手が、削ぎ落として削ぎ落として創ったオリジナルである。」と話し、それに続いて談春師の「どの時代も、創ってない人は売れないんだとおもう。」と話した。いわば、その時代時代で落語のスタンダード、ベストは異なるし、そのスタンダードやベストを創ろうとしない噺家は売れないということか。このことについて、id:j_i_k_a_nさんは次のように書いている。
戦後の黄金期が基準になってるのは、一定以上の音質の録音がたくさん残っているという下地があってのことかもしれないけど、基本的には「自分の聴いてきたものこそ一番」だと思っている年配の落語ファン(自己中心的な価値観から逃れられない人たち)の存在なのでは、と思ったり。だからといって過去の「名人」を無視したくないな。無視までいかなくても、軽視されている風潮(「落語はライブがすべて、名人のCDなんか聴いてもしょうがない」というようなかんじ)を一部に感じる。「創ってない人は売れない」というのは、そうなんだろうなあ。
かくいうこの私も、落語のCDを買うよりはより多くの寄席・落語会に通ってその分を当代の噺家さんに還元したほうがいいと思っていた。いまでもそう思っている部分はあるのだけれど、ただある噺家さんを贔屓にするかしないかの基準は、やっぱり私の中での過去の名人を中心にして考える。それは十代目金原亭馬生師なのだけれど、師に対してのリスペクトは常に持ちつつ、師の高座に影響を受けた噺家さんには特に興味を覚えるし、未知の噺家さんに対してはわずかなところでも馬生師の影響はないかチェックしてしまう。このことはロックンロールやジャズをよく聴く人ならよくわかることかもしれないが、彼らは全部が全部とはいわないけれど、ある曲が気になったら、それに影響を与えたものにも興味が湧くのは当然だろう。演奏する側についても同じだと思う。過去のミュージシャンやバンドがあって現在のミュージシャンやバンドがある。現代の彼らが過去のマスターピースを取り上げるから、過去の彼らも今の人たちに聴かれていく。こういう補完関係がうまく落語にも当てはまらないだろうか。落語は、音楽のようなグルーヴと呼ばれる無形の波動が感じにくいので、凡庸な噺家さんを聴くだけでは、よく言われる年配の落語ファン、j_i_k_a_nさんのいう「自己中心的な価値観から逃れられない人たち」と、比較的最近落語ファンになった若い人たち、「とにかく今の言葉で面白く話してもらえればそれでいいという人たち」との乖離がおこるのだと思う。ただ談春師と喬太郎師は、私のいうグルーヴに関して話していると思われる部分がある。
談春 ところで、ねえ、喬ちゃん、アドリブってない?
喬太郎 ありますよ。ほぼ、アドリブの連続ってこともある。
談春 そうだよね。ほとんどアドリブなのよね。その場でのおもいつきで
喋ってる。やってる最中に、何か見たことのない景色が見えてきて、
それについて喋り出したりする。自分でどこへ行くかわからない。
喬太郎 そうです。いいか悪いかわからないけど、『文七元結』やっていても、
吾妻橋の上で、いままで聞いたこともないセリフを言っていたりする。
談春 確認していい?そういう聞いたことのない新しいセリフをいったあと、
セリフは続いていくけど、頭の中で、さっきのセリフの感想が動いて
ないですか。
喬太郎 動いてる。
談春 動いてるよね。それはあとで考えることじゃない。するとセリフの
順番がどんどん変わっていったりして、自分の言ったことが広がって
いく、それに手応えを感じて、そのままお客さんにも広がっていくの
を感じて、それに自分も引っぱられていくという。
喬太郎 そう!ありますあります。
喬太郎師の場合、自身も言っているがやっぱり「文七元結」のような圓朝もの、芝居噺にそのグルーヴを感じる。ちなみに私はそれと同じような心地よい波動、いいかればグッドヴァイブレーションを雲助師や最近贔屓にしている萬窓師にも感じる。
また「噺の話」の小言幸兵衛さんは次のようにこのことを書いている。
もちろん、年400回落語会に行く堀井さんだって、滅多に「その時」には出会えないのに、その十分の一しかチャンスのない私には、まさに僥倖といえる「その時」に出会えることを、気長に待ちたいものだ。加えて、この座談会で喬太郎が言うように、柳家小三治が何でもないような噺(『出来心』)で会場をどかんどかんとひっくりかえす芸も、ひとつも目標であって欲しいし、そういう落語に出会いたい落語ファンも、これまた大勢いることを忘れて欲しくない。もちろん、「何かを求めて行く落語会」だけでなく、「何も求めずに行く寄席」もいつまでも大事にして欲しい。
全くもって同意。まさしく「何かを求めたい」と思って落語会に通い詰めるファンは、私も含めて多いだろう。が、かつて志ん朝師がファンが固定されてしまっていると都心で行われる落語会を敬遠したとされるように、噺家さんを何か何処かで束縛するような雰囲気の場を作ることだけは、ファンも業界の関係者も、そして噺家さん自身も避けてほしい。そして幸兵衛さんが言うような「何も求めずに行く寄席」のようなマッタリとした、ただただ時間の流れに身をまかせることの出来るような、心地よい波動、グッドヴァイブレーションを生み出せるような雰囲気の場を、彼らは作ってほしい。