Archive for 2009年3月

談春、喬太郎、憲一郎座談会を読んで考えたこと

2009年3月30日

大切なのは、落語的グルーヴ、心地よい波動、グッドヴァイブレーション。

噺家の余芸としての著作物には関心がないうえ、自身の本を高座で宣伝するなど、全くもって興ざめだと思っているのだが、週刊文春最新号のこの座談会だけは別。興味をもって読んだ。以下の落語系ブログでも取り上げられている。

柳家喬太郎と立川談春の対談 落語の噺とネコの話/ウェブリブログ

継承と創造 – j_i_k_a_nの日記

噺の話  談春・喬太郎・憲一郎 特別座談会 週刊文春創刊50周年記念号

少なくとも「落語特集」と称する記事をメインにした雑誌よりも、この週刊文春の座談会に何倍もの価値を見いだせるのは、いまだに「志ん生」「文楽」「圓生」「小さん」「志ん朝」を取り上げなければ売り上げが見込めない、と思い込んでいる「落語素人」の編集者よりも、やはり堀井さんが絡んで談春師、喬太郎師の本音を引き出しているところだろう。ジャマさんの書いているように、あくまでも談春師は自分のペースで持論を語って、喬太郎師はそれに気を遣いながらもツボを押さえた考えを話す、この調整役、舵取りを堀井さんがうまくこなしている。

興味深かった発言。まず落語ブロガーのこと。喬太郎師は「楽しければいいんじゃないですか、そんなに論じなくてもと、ちょっとおもいますね」と発言。以前、落語教育委員会で「私も素人だったらブログを書いていると思いますね」と言ったことを思い出してしまった。やっぱり気になるのだろうか。

そして落語の黄金時代、昭和20年~30年代と現在の関係について。喬太郎師の発言として要約だが「ネタとしては継承しているけれど、落語そのものはそれぞれの時代の名人上手が、削ぎ落として削ぎ落として創ったオリジナルである。」と話し、それに続いて談春師の「どの時代も、創ってない人は売れないんだとおもう。」と話した。いわば、その時代時代で落語のスタンダード、ベストは異なるし、そのスタンダードやベストを創ろうとしない噺家は売れないということか。このことについて、id:j_i_k_a_nさんは次のように書いている。

戦後の黄金期が基準になってるのは、一定以上の音質の録音がたくさん残っているという下地があってのことかもしれないけど、基本的には「自分の聴いてきたものこそ一番」だと思っている年配の落語ファン(自己中心的な価値観から逃れられない人たち)の存在なのでは、と思ったり。だからといって過去の「名人」を無視したくないな。無視までいかなくても、軽視されている風潮(「落語はライブがすべて、名人のCDなんか聴いてもしょうがない」というようなかんじ)を一部に感じる。「創ってない人は売れない」というのは、そうなんだろうなあ。

かくいうこの私も、落語のCDを買うよりはより多くの寄席・落語会に通ってその分を当代の噺家さんに還元したほうがいいと思っていた。いまでもそう思っている部分はあるのだけれど、ただある噺家さんを贔屓にするかしないかの基準は、やっぱり私の中での過去の名人を中心にして考える。それは十代目金原亭馬生師なのだけれど、師に対してのリスペクトは常に持ちつつ、師の高座に影響を受けた噺家さんには特に興味を覚えるし、未知の噺家さんに対してはわずかなところでも馬生師の影響はないかチェックしてしまう。このことはロックンロールやジャズをよく聴く人ならよくわかることかもしれないが、彼らは全部が全部とはいわないけれど、ある曲が気になったら、それに影響を与えたものにも興味が湧くのは当然だろう。演奏する側についても同じだと思う。過去のミュージシャンやバンドがあって現在のミュージシャンやバンドがある。現代の彼らが過去のマスターピースを取り上げるから、過去の彼らも今の人たちに聴かれていく。こういう補完関係がうまく落語にも当てはまらないだろうか。落語は、音楽のようなグルーヴと呼ばれる無形の波動が感じにくいので、凡庸な噺家さんを聴くだけでは、よく言われる年配の落語ファン、j_i_k_a_nさんのいう「自己中心的な価値観から逃れられない人たち」と、比較的最近落語ファンになった若い人たち、「とにかく今の言葉で面白く話してもらえればそれでいいという人たち」との乖離がおこるのだと思う。ただ談春師と喬太郎師は、私のいうグルーヴに関して話していると思われる部分がある。

談春  ところで、ねえ、喬ちゃん、アドリブってない?

喬太郎 ありますよ。ほぼ、アドリブの連続ってこともある。

談春  そうだよね。ほとんどアドリブなのよね。その場でのおもいつきで

    喋ってる。やってる最中に、何か見たことのない景色が見えてきて、

    それについて喋り出したりする。自分でどこへ行くかわからない。

喬太郎 そうです。いいか悪いかわからないけど、『文七元結』やっていても、

    吾妻橋の上で、いままで聞いたこともないセリフを言っていたりする。

談春  確認していい?そういう聞いたことのない新しいセリフをいったあと、

    セリフは続いていくけど、頭の中で、さっきのセリフの感想が動いて

    ないですか。

喬太郎 動いてる。

談春  動いてるよね。それはあとで考えることじゃない。するとセリフの

    順番がどんどん変わっていったりして、自分の言ったことが広がって

    いく、それに手応えを感じて、そのままお客さんにも広がっていくの

    を感じて、それに自分も引っぱられていくという。

喬太郎 そう!ありますあります。

喬太郎師の場合、自身も言っているがやっぱり「文七元結」のような圓朝もの、芝居噺にそのグルーヴを感じる。ちなみに私はそれと同じような心地よい波動、いいかればグッドヴァイブレーションを雲助師や最近贔屓にしている萬窓師にも感じる。

また「噺の話」の小言幸兵衛さんは次のようにこのことを書いている。

もちろん、年400回落語会に行く堀井さんだって、滅多に「その時」には出会えないのに、その十分の一しかチャンスのない私には、まさに僥倖といえる「その時」に出会えることを、気長に待ちたいものだ。加えて、この座談会で喬太郎が言うように、柳家小三治が何でもないような噺(『出来心』)で会場をどかんどかんとひっくりかえす芸も、ひとつも目標であって欲しいし、そういう落語に出会いたい落語ファンも、これまた大勢いることを忘れて欲しくない。もちろん、「何かを求めて行く落語会」だけでなく、「何も求めずに行く寄席」もいつまでも大事にして欲しい。

噺の話  談春・喬太郎・憲一郎 特別座談会 週刊文春創刊50周年記念号

全くもって同意。まさしく「何かを求めたい」と思って落語会に通い詰めるファンは、私も含めて多いだろう。が、かつて志ん朝師がファンが固定されてしまっていると都心で行われる落語会を敬遠したとされるように、噺家さんを何か何処かで束縛するような雰囲気の場を作ることだけは、ファンも業界の関係者も、そして噺家さん自身も避けてほしい。そして幸兵衛さんが言うような「何も求めずに行く寄席」のようなマッタリとした、ただただ時間の流れに身をまかせることの出来るような、心地よい波動、グッドヴァイブレーションを生み出せるような雰囲気の場を、彼らは作ってほしい。

噺家が客を育てる

2009年3月26日

あるブログを読んでいたら

「落語会には前座はいらない。そんなヘタな噺で会場を盛り下げてどうする。」

ということが書かれていました。

「そんなに出たいのなら、寄席同様、開演前に出たらどうだ」とも。

もっともそのブログ主は以前にも、「『落語家』は女に向かない職業」と断言して

「そんなに高座に上がりたかったら、女流の多い講談にでも行ったらどうか」

とも書いていたことがあったので、そういう考えの人ならもっともな考えだな、

とも思ったりしました。

人のご意見にどうこうのいうつもりは、サラサラありませんが、

素人から噺家という芸人に生まれ変わる途中の前座さんや、

差別という色眼鏡で見られる女流の噺家さんも、私自身は応援します。

よく「お客が噺家を育てる」と言われますけれど、

逆にいうと「噺家がお客を育てる」ということも言えるのではないでしょうか。

もちろん名人上手の名演を聴いて、落語を聴く耳を育てるということもありますが、

右も左も分からない素人同然の前座の噺や、逆境にも関わらず物語を語る女流噺家の高座を

見守っていくことで、男女の別を問わず、一人の芸人の成長が落語ファンというよりも

一個人として何か得るものがあるのではないでしょう。

高座の上の語り口、その上手下手、巧みさを何やかやということだけが、落語ファンではない。

「精進、精進」と芸人にいうことがだけが、落語ファンではない。

どんな立場の噺家であれ、高座の上の噺を聴いて、それを自身の精神的な肥やしにして

どんな形であれ噺家に返してやるのが本当の落語ファンだと思います。

春風亭百栄「鮑のし」

2009年3月25日

3月23日 3月下席夜の部@鈴本演芸場

まだ間に合うだろうと思っていたら、すでに小ぞうさんのマクラが始まっていた。舞台の上がやけに賑やかで、昼の部の三平襲名披露の飾り付けが当然だがそのままにしてあるからだ。百栄師がお目当ての若い女性ファンが多かったが、客席の入りは、ほぼ范文雀、いや半分弱(笑)。

柳家小ぞう 初天神(途中から)

三遊亭窓輝 幇間腹 

橘家圓十郎 禁酒番屋

入船亭扇辰 御血脈

柳家喬太郎 ほんとのこというと

桃月庵白酒 化け物使い

~中入り~

柳家はん治 背なで老いたる唐獅子牡丹

春風亭百栄 鮑のし

小ぞうさんの「初天神」は久しぶり。何故なのかは神のみぞしるだが、6月の二つ目昇進に向けて着実に進化しているのがわかる。細かいクスグリに自分なりの工夫をこらしてどうすれば客席を笑いで暖めることが出来るか考えている。

窓輝さんは初見。「幇間腹」というネタのせいかもしれないし、圓窓師の実息のせいかもしれないが、若旦那というキャラが生きている。二つ目10年目ということで真打昇進が近いと思うが、噂に聞いていたとおりそのクラスの噺家さんのなかでは上の方だと思う。ただあまり目立たないのはやはり圓窓門下というためか。

圓十郎師の「禁酒番屋」はこんな浅い時間に聴かせるネタなのか、と思ってしまった。当然、急いで演じた感は拭えないし、番屋の侍が酔っぱらっていく様もおざなりだった。それでも師のキャラのお陰で、終盤の小便の場面では客席の爆笑を呼んでいた。

扇辰師の定番「御血脈」をはさんで、喬太郎師登場。本来の寄席らしいというマッタリとした雰囲気のなかで、何だか非常にリラックスしているように見えた。この日は鈴本昼の部三平襲名披露→池袋新作落語の会→鈴本夜の部代演と高座をこなしているにもかかわらず、だ。当然だろう、これがこの日の最後の仕事だろうし、この客席だ、自分のやりたいことをやりたいように出来るからだ。でも、この「ほんとのことをいうと」を鈴本の定席で聴けるとは思わなかった。こういうネタを鈴本でかける大胆さ、というか開き直りがこの日の師にはあったのか。まあ百栄師がトリということもあったのかもしれない。全編通して弾けっぱなしの喬太郎師で、持ち時間を完全にオーバーするほどの熱演?だった。

中トリの白酒師、高座に上がる前にすれ違いに喬太郎師からひと言、「ごめん」といわれたという。それは持ち時間をオーバーしたためなのか、それとも自分の出番でドカンドカンと湧かせてしまったためか。師にしては珍しく、マクラはそのことだけで本題に入っていく。白酒師の「化物つかい」はお初だが、冒頭の口入れ屋の場面をカットして杢助が隠居のところにやってくるところから始まる。隠居の人使いの荒い様子ももうちょっと時間があれば念入りにやったのだろうが、ここはアッサリと。それでも、化け物が現れる度のゾクゾクする(というか、何かくすぐったく思える)仕草や、一つ目小僧に「どちらが目尻だ?」と訊く台詞、女ののっぺらぼうに布団をひいてくれと頼んだら何故か勘違いされる場面など、師独特のギャグはちゃんと挿入されていた。あと当然、志ん朝師のヴァージョンでもお馴染みの「なまじ目鼻がついていて苦労する女がいくらもいるんだ」というクスグリも。次回「白酒ひとり」などの独演会でじっくり聴きたい噺だ。

トリ前のはん治師の「背なでおいたる~」。もう何度、寄席で聴いたことか。それでも厭きないのは、この師匠の人柄によるところが大きいように思う。

さて、トリの百栄師の演目は「鮑のし」。甚兵衛さんの名前が出てきたので「火焔太鼓か?」と思ったが。浅い時間に二つ目さんもやることもあるこのネタを何故と最初は思ったが、最後の「のし」の由来まで丁寧に演じた。特に登場人物の性格描写。何処かボケていてノンビリしている甚兵衛さんを、冒頭に隅田川に鯨を観に行ったというエピソードや、お祝いの口上を何度もお内儀さんに聞き直す場面でを明確に表現していた。それは、もともと百栄師自身の口調がどちらかというと与太郎向きというせいもあるかもしれないが。反対に、お内儀さんのダメな亭主を思いやる心優しさが聴く者によく伝わってきたし、曲がったことが嫌いな魚屋の親方や、家主の因業さも同様。特に甚兵衛さんが最初に家主のところに行って、突っ返され地面に落としてしまった鮑を丁寧に泥を払って拾うところなど、ちょっとホロッと来るところもあった。このことは、案外、といっては師に失礼かもしれないが、噺の中の人物の描き分けがしっかりと出来ているということであり、新作落語家として知られている百栄師が古典もしっかりと聴かせるということの証左だろう。そして後半、再び家主のところへ行って啖呵を切る場面。威勢のいい江戸弁でまくし立てるとうより、駄々っ子が親に精一杯反抗しているというような感じ。そのせいか「ケツをまくったら何もはいてねぇ」という台詞はなかったが、現代風のアレンジによる甚兵衛さんの逆襲で客席の爆笑をよんでいた。

真打昇進後、今回の百栄師のように一年も経たない真打に鈴本夜席でトリを取るとは、よっぽど席亭から期待されているのか、それとも席亭の考えが実験的なのか。もちろんこのことを否定的に書いているわけではなくて、もっとドンドン若手の真打ちにトリを取らせるような興行を打ってほしい。もちろん客が入るか入らないかは重要な問題だが、末廣亭のようにある年齢以上の真打ちしかトリを取らせないような芝居だと、よっぽど贔屓の噺家しか観に行かなくなるだろう。

古今亭菊志ん「兵庫船」

2009年3月21日

3月21日 若手あとおし落語会「古今亭菊志ん独演会」@東京・杉並区立勤労福祉会館

柳亭市也   転失気

古今亭菊志ん 長屋の花見

~中入り~

古今亭菊志ん 兵庫船

菊志ん師は、思いやりのある噺家さんだと思う。市也さんが出ていたとはいえ暖まりきっていない客席を、いかに暖めるか、それは数多くの地域寄席の高座をこなしている師だからこそ、出来ること。マクラに十分時間をかけることで聴くものの気持を笑いの方に向けていた。これは単に噺のテクニックで客に聴かせるということよりも、聴く側に立って落語をしようとしている証左であって好感がもてた。正直に言うと、いままで菊志ん師の高座は何処か尖っていて聴いているあいだは面白可笑しいけれど、あとには何も残らないなぁと思っていた。けれど何回か続けて聴いているうちに、尖っているのは髪型だけで、落語の形はしっかりと古今亭の系統をしっかりと引き継いでいるのだな、と思うようになってきた。

たとえば、一席目の「長屋の花見」。季節柄、いろんな噺家さんが寄席でも高座でも口演する。皆もよく知っている噺だから、テンポ良くやらないと冒頭のところですぐに飽きがしてしまう。ところが菊志ん師はここのところをさらっとやって、次に移る。つまり長屋の連中が家主からの呼び出しを店賃の催促じゃねぇかと疑心暗鬼する場面をクドクドやらずに、花見に出かけた以降の方に重点を置いていたのである。花見の場面はギャグとしては同じ事の繰り返しだが、テンポがいいから聴くものを全く厭きさせない、というか、厭きさせる隙を聴くものに与えないのだ。これは菊志ん師の持って生まれた天性だと思う。もうひとつ、聴いていてよかったのがその口調。個人的には江戸っ子の口調を聴くなら今は扇遊師が一番かな、と思っているが、扇遊師の場合、どちらかというと渋みのある酸いも甘いも嗅ぎ分けるような口調がいいのだが、菊志ん師の場合はその威勢の良さ。もしかしたら若手真打の中では一番だと思うし、この点では扇遊師もどうなのかと思う。もちろんベテランと若手という差があるとはいえ、これは師にとっては大きな武器。これが今回の高座では大きくものをいったようだ。

このことは二席目の「兵庫船」でも働いた。この噺*1、後半の講釈の場面は、居候をしている若旦那がにわか講釈師になるという噺「五目講釈」の元ネタ。また立川流では「鮫講釈」という演目で時折談春師で高座にかけられている。冒頭の江戸っ子の船に乗る場面から謎かけをやる場面にかけて。これも「長屋の花見」同様、何度も同じギャグの反復だがテンポと歯切れの良さで笑わせてくれる。そして後半の講釈の場面。三三師のヴァージョンも聴いたことがあるが、菊志ん師の講釈を語るときのグルーヴというかドライブ感もなかなかのもの。三三師との違いは、ちなみに二人は真打ち昇進が同時らしい、三三師のが以下にも講談という形式張った感じがするのに対して、挿入されるクスグリはほとんど同じだったものの、菊志ん師のそれはまるでいかにも陽気で賑やかで場を爆笑の渦に巻き込むという感じ。しかもそれは単なる表面上の可笑しさではなくて、早口の言い立てを一度も噛まずにやり遂げたという(真打なんだから当たり前だという声も聞こえてきそうだが)しっかりとした語り口に裏付けされているのもいい。この「兵庫船」という単純なドタバタ劇だが、文字通りドタバタしてまとまりなく終わらず、タイトにしっかりと終わったのは、そんな菊志ん師の実力によることが大きい。

ところでこの「若手あとおし落語会」、今回で60回目だそう。奇数月毎の開催だから今年で10年目ということらしい。初めての大入り袋も出たとのこと。客席もほとんど近所の人たちばかりでよく笑っていた。この点では噺家にとってはよいお客さんだったろう。こういう地味な地域寄席もいい。次回は鈴々舎わか馬さん、三遊亭兼好師、柳家喬之助師とつづく。

ファンキーな落語

2009年3月19日


D

昨夜は寝付かれなくて、やっとウトウトしたと思ったらラジオでハービー・ハンコックの「ウォーターメロンマン」が流れてきた。かぼちゃ屋ならぬ「スイカ屋」か。ハービーが子供の頃に聞いた西瓜売りの声を元に作ったともいわれているが、それはともかくとして、こういったジャズとかブルースとかいったものは、もちろんソロで奏でることもあるけれども、何人かのプレーヤーが自分のパートを自分の即興センスで互いに競い合い、一つの音楽に仕上げていくという面があるとおもう。この「ウォーターメロンマン」についていえば、アメリカン南部ののどかな昼下がり、屋台だか牽き売りの荷車だかに山盛りの西瓜がノンビリと売られている様子が、独特の横揺れビートでマッタリと伝わってくる。映像や言葉による具体的な説明ないにもかかわらず、ともすれば時計の針を戻して独特な世界に引き込んでしまうような感覚になることもある。

こういう感覚を「ファンキー」といっていいのかどうかは、それほど音楽に詳しくない門外漢にはわからないけれど、落語にもそういった、いいかえれば「ノリ」のようなものがあるような気がする。

つまり落語というのは、たった一人で何人もの登場人物を描き分けなければいけないわけで、その点では音楽とは正反対の方法論で表現する芸だと思うが、結果的には落語という芸能も、時計の針を戻して独特な世界に引き込んでしまうような感覚に聴くもの陥らせてしまう。そういうときにファンキーな落語だと感じる。たとえば、いつの間にかリズムをとっているように噺家の台詞一つ一つにうなずいたり、台詞と台詞の間の静寂に固唾をのんだりするなかで、噺家の繰り出す喋りのビートに身を委ねる感覚に囚われたときが、「この落語はファンキーだな」と感じるときだと思う。そもそも落語は言葉で音楽する芸じゃないか。「黄金餅」や「金明竹」の言い立ては、ロックギターの速弾きのようなドライブ感を感じさせるし、喋る調子のオンオフでさえ楽譜の記号でいうところのフォルテッシモ、ピアニッシモのように思えて仕方がない。

好きな噺家でいえば先代の馬生師、白酒師、そして個人的に「パンクハナシカー」あるいは「ラクゴパンカー」と思っている菊志ん師など、独特のリズム、テンポ、ドライブ感を持っている人たちは「ファンキーな落語」を語るのだろう。

Takin' Off

Takin’ Off

桃月庵白酒「幾代餅」

2009年3月18日

3月17日 第10回白酒ひとり@内幸町ホール

今回で10回目の、会場を内幸町ホールに移してから2回目の「白酒ひとり」。最近はずっと前売完売が続いている。半年ぐらい前までは、まだ当日でもチケットがあった。この人気は作られたものではなく、落語ファンの口コミで師の人気がジワジワ出てきたものだろう。ただそれにしたがって客層も違ってきたのかな。白酒師の毒気のあるクスグリにも反応が薄い客が多くなってきたようだ。もちろんそれが悪いということではないけれど、客層が変わることで、会全体の雰囲気が変わることがちょっと心配。

今回の演目は以下の通り。

替わり目

質問コーナー

花見の仇討

幾代餅

まず前回の甚語楼師との二人会、黒門亭と見逃してきた師の替わり目。今、どの高座のマクラでもネタになる「二代目三平襲名披露宴」のことから本題に。もちろん普段寄席で聴くことの出来る短縮ヴァージョンではなく、通しで口演した。師、お得意の酔っぱらいの噺だが、最初から酔っぱらいのテンションが高い。だって冒頭からラバウル小唄を唄うだもの。それはそれでいいとして、なんだか私はこの噺とはどうも縁がないようだ。というのも、開演前に新橋のスマトラカレーで食べたカレーと小瓶のビールが、空きっ腹にまずかったのか、一席のあいだしばしうつらうつらしてしまった。気がついたら、もう終盤の義太夫流しの場面。う~ん、師匠、ごめんなさい。4月22日のアイとラクゴでもやるそうなので、その時にリベンジ!

今回の質問コーナー、興味深い質問があった。「いつどこで稽古をしているのか」というもの。師の答えは、「金明竹」や「たらちね」のような言い立てのあるもの、「つる」「道灌」や「手紙無筆」のような問答モノは必ずさらう。その他の噺はだいたい粗筋は頭の中に入っているので、大丈夫だという。真打になっても、いわゆる「前座噺」は必ずさらうんですね。そして真打だからこそ、粗筋が頭の中に入ったうえで師独特のドライブ感ある台詞やアドリブ、クスグリが生まれるのですね。やっぱりこれはフラという枠には収まりきれない、もう天性の才能といってもいいかもしれない。

それともうひとつ、「人情噺はやらないのか」という質問。師によると去年の後半から人情噺をやることを考えていたけれど、他にやりたいものがあった、という。以前、雲助師から「淀五郎をやったらどうだ」と言われて、師匠からあまりそういうことを言われたことがないので驚いたという。ただ今年あたりは「芝浜」をやってもいいかな、という発言があった。もしかすると暮れには白酒版「芝浜」を聴くことが出来るかも知れない。

二席目。いつもなら質問コーナーの時は、羽織を着ないで高座に上がるので軽い噺をやるのかと思いきや、季節ネタ「花見の仇討」を。「長屋の花見」はやらない(笑)。師にはやっぱりこの「花見の仇討」のような、色々な登場人物が出来てきてワイワイガヤガヤ寄り道をしつつ、最後にスットーンと落とす噺が私は好きだ。どうも「替わり目」のように少ない登場人物が絡み合うという噺は、ストーリーが直線的で単調のような気がする。それに「替わり目」は女房の情というウェットな部分もあるし。本題のほうは冒頭の噺の趣向を考える四人組の場面から、私の好きな白酒師のドタバタ・コメディアンぶりが爆発。同じような導入部の「錦の袈裟」でもそうだけれど、師のいいところはこういった複数の登場人物の描き分けを、スパッとリズムよくやってしまうところ。だから一度そのリズムに乗ってしまえば、観客はローラーコースターに乗るように最後まで高座から目が離すことが出来なくなる。終盤の仇討ちのドタバタ。四人組の一人の六ちゃんが泣きながら仇討の芝居をしつつ、最後には本気になってしまう場面は師の面目躍如。師の術中にはまったという描き方はヘンかもしれないけれど、思惑通り、場内は大爆笑、また大爆笑だった。

中入り後はネタだししてある「幾代餅」。基本的には雲助型を踏襲。それでも白酒オリジナル爆笑アレンジが施されていた。例えば清蔵が貯めていた給金を親方からやれないと聞かされて、井戸の水を飲んで自殺?を計るや、清蔵の告白を聴いてお内儀さんがお笑いする場面、清蔵が吉原から帰ってきて香箱の蓋をを見つめながら「3月・・、3月・・、」と放心する場面など。以前、師は廓噺のようなキッチリとしたネタにはアレンジを加えるのが難しいということを言っていたような気がするが、今回はその部分が巧くこなされて、春に相応しいラブストーリーに白酒流のコメディタッチがうまく活かされていた。ただ清蔵が幾代に自分の思いを告白する場面では、もうちょっと一途な気持が盛り上がっても良かったかなという気もする。もっともこれは雲助師と比べてしまうのがいけないのだが。

五街道雲助「夜鷹そば屋」

2009年3月17日

3月16日 3月中席夜の部@鈴本演芸場

鈴々舎やえ馬 子ほめ

春風亭一左  家見舞

古今亭菊志ん 首提灯

春風亭一朝  短命

春風亭百栄  善光寺の由来~御血脈

桂藤兵衛   長屋の花見

~中入り~

柳亭燕路   夢の酒

五街道雲助  夜鷹そば屋

■五街道雲助 夜鷹そば屋

昭和40年に先代、五代目古今亭今輔がネタおろしした有崎勉作「ラーメン屋」がもともと。「有崎勉ってだれ?」というひともいるだろう。「有崎勉」は柳家金語楼の落語台本・脚本家としてのペンネーム。まあ柳家金語楼といっても知らないひともいるでしょう。私も昔々、テレビでヘンな顔をしているおじさん、というイメージしかない。

柳家金語楼 – Wikipedia

その「ラーメン屋」を平成8年に雲助師が時代設定を江戸に戻して「夜鷹そば屋」として初演した。そういえば鈴本3月上席さん喬主任の中トリ(5日)で師は同じ有崎勉作「身投げ屋」を口演している。ちなみに今輔師の弟子、古今亭寿輔師の「ラーメン屋」の音源がある。

ラジオデイズ|落語・話芸の街|ラーメン屋(試聴可)

子のない老夫婦が営んでいる夜鷹そば屋に一人の若者が立ち寄る。続けて3杯のそばを立て続けて食べると自分を自身番に連れて行けという。わけを訊いてみると「お足もない、頼る当てもない、牢に入れば、とりあえずのおまんまが食える」という。すると老夫婦は自分の長屋に若者を連れて帰ってもてなしたうえ、自分たちのことを「ちゃん、おっかあ」と呼んでくれと若者に頼んだ・・・。

冒頭の描写がいい。「畑が悪い、鍬が悪い」と言いつつも「まだ子供が出来ますかねぇ」と夫に訊く老妻が愛らしい。そこには子供が出来なかったという悲しみを自身の心の奥深くに秘めつつも、たがいのことを思いやる老夫婦の愛情が手に取るようにわかる。そして惣吉と名乗る若者が登場、憂いを帯びながら淡々と自分の生い立ちを語る。暖かな愛情で支え合っている夫婦と、今までの人生で一度も人から愛情というもの受けたことない惣吉。老夫婦と会話していくうちに、その彼の心が氷が溶けていく様はまさに雲助師の真骨頂。特に後半、一朱、二朱と惣吉に渡して、互いに「ちゃん、おっかあ」と呼んでくれ、とはしゃぐ老夫婦を目の前にして、惣吉自身も気持が和らいで行く場面が素晴らしい。そしてラスト、惣吉から(もちろん老夫が彼に言わせた台詞だが)「ちゃん、俺が代わりにそば屋をやってやるよ」という言葉を聞くと、思わず老夫婦がお互いを見つめ合い涙ぐむ、そして静寂。トリにもかかわらず三十人にも満たないだろう演芸場の中を静かに流れる空調の響きと相まって、これほど、人々の邂逅と和解を描いた落語を私は見たことがなかった。

惣吉の暗い生い立ちと、ひっそりと寄り添って生きてきた老夫婦の過去。それは今、何処かの片隅で営まれている人々の姿かも知れない。それが落語の上でとはいえ、静かなハッピーエンドで終わったことは、この時代を生きる人にも何かしらの余韻を与える。

2009/03/18 7:38 追記:柳家金語楼ってこんな人ですねぇ

柳家金語楼―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))

柳家金語楼―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))

クワイのきんとん

2009年3月16日

先日のさん喬師の「百川」。

自分が裕福でない子供時代を送ってしまったせいか、

噺の中で百兵衛さんが飲み込むきんとんを「栗きんとん」と思い込んで

感想のなかで書いてしまった。

私の中では、きんとんといえば、栗。

子供の頃、おせち料理を食べるとき、何より真っ先に手を出した栗きんとん。

でも、このきんとん、実はくわいのきんとんだったのですね。

その時のエントリーのコメントでも「スージー・スー」さんから、

「くわいぢゃないんですね」と言われたが、

さん喬師の「きんとんの餡がたれるだろ」という台詞が頭に残っていて。

すっかり栗きんとんだと思い込んでしまったのですね。

ところが、昨日地元の図書館に行って講談社学術文庫の「古典落語(続)」の

「百川」を読んでいたら、なんとクワイのきんとんということがわかったのです。

古典落語(続) (講談社学術文庫)

古典落語(続) (講談社学術文庫)

でも、「クワイ」ってなんなの。「クワイ」なんて今までの人生で食べたことない。

クワイ – Wikipedia

ふ~ん、で、「クワイのきんとん」って。

くわいの金団(きんとん) | さいたま市 食育なび

クワイは埼玉の名産品だそうです。知らなかった。

ちなみに、きんとんを「金団」と書くのも知らなかった。

(15:31 追記 きんとん=金団の「団」って、座布団の「団」でしたね。)

それにしても思い込みっていうのは、おそろしい。

今日は、鈴本夜の部、正雀師の代バネ、雲助師の「夜鷹そば屋」を聴きに行きます。

これいいですよ。ぜひ観ておくべきだ、と思います。

正雀師のHPをプリントアウトしていくと、木戸銭が2200円なるそうです。

http://syouhachi.hp.infoseek.co.jp/waribiki.htm

2009年3月28日13時10分 一部不適切な箇所があったため削除の上、改題しました。

柳家喬太郎「次郎長外伝~小政の生い立ち~」

2009年3月14日

3月14日 3月中席昼の部@池袋演芸場

総領弟子とはいえ、師匠の代バネ(トリの代演)を勤めるとは偉いことだ、扇遊師は自身の高座のマクラで言っていた。もちろん今日代演することは本人は知っていただろうけれど、落語ファンは昨日の午後になるまで分からず(ちなみに池袋演芸場は前日の午後にならないと代演者を教えてくれない)、ちょっとビックリした。しかも権太楼師も休演でその代わりに文左衛門師が登場するとなると、中入り前と中入り後とでどんな風に雰囲気が一変するか、楽しみな今日の芝居。

柳家小んぶ  初天神

柳家さん若  子ほめ

柳家喬四郎  占い師かぐや姫

柳家喬之助  締め込み

柳家喜多八  松曳き

入船亭扇遊  肥瓶

三遊亭圓丈  シンデレラ伝説

~中入り~

柳亭左龍   鹿政談

橘家文左衛門 天災

柳家喬太郎  次郎長外伝~小政の生い立ち~

■柳家小んぶ 初天神

小んぶさん、だいぶ噺家らしくなってきた。彼の「初天神」は聴くのは初めてだけれども、金坊の無邪気さと父親の戸惑う姿はそれなりに出ていたと思う。それと小んぶさんの野太い声で喋る男らしい父親もいい。

■柳家さん若 子ほめ

時間があるのか、マクラも含めて時間をかけてきっちりと口演。噺の構成は、前座さんがやる「子ほめ」とはちょっと違った。伊勢屋の番頭さんとの絡みが少なかったり、竹さんの家で寝ているのが婆さんだとか、子どもを誉めるときのクスグリが違ったり。多少、間延びしたかなと思ったところもあるけれど、そつなく噺をこなした。

■柳家喬四郎 占い師かぐや姫

問題はこの人。別に内輪ネタが悪いということではないが、自分を四番弟子だから一門の中ではもう幹部だとか、師匠が休演だからといってクスグリに使うのはどうか。

■柳家喬之助 締め込み

喬四郎さんの尻ぬぐいをしたのが、すぐ上の兄弟子の喬之助師。喬四郎さんのことを一門の「幹部」ならぬ「患部」だと言っていた。その通りだと思う。この尻ぬぐいのためにすっかり高座の印象が薄くなってしまった。

■柳家喜多八 松曳き

花粉症で本当に調子が悪そう。本当なら自転車で寄席を移動するそうだが、この季節はちょっと無理だそうだ。でも噺に入るとやっぱり面白い。師の「松曳き」は前半の植木職人と赤井御門守とのやりとりをカットしてすぐに田中三太夫とのギャグに入っていくのだが、この御門守にもギャグの割合を多くしているのが特徴。腰元に色目を使う御門守のにやけかたに大爆笑。それと三太夫と御門守とのそれぞれの場面がカットバックされているのも歯切れが良く、スピーディー。

■入船亭扇遊 肥瓶

師の噺を聴いていると、「家見舞」というタイトルよりやっぱり「肥瓶」が似合う。だからといって噺が汚いというわけでは、全くない。むしろ師による江戸っ子の歯切れのいい喋りを聴いていると、清々しい感じさえする。それはオチが「また水を飲ませてやれ」という兄貴分の台詞で終わるからかも知れないが。それにしても、喜多八師の「松曳き」、扇遊師の「肥瓶」といった軽い滑稽噺がベテランといい真打の師匠によって語られるのも寄席のいいところ、です。

■三遊亭圓丈 シンデレラ伝説

この「シンデレラ伝説」という噺、実質上の一番弟子である三遊亭白鳥師の作とのこと。今回はトリで一番弟子が師匠の代バネをし、中トリで師匠が一番弟子の新作落語をやるという、何か特別な感じのする芝居になった。なお「シンデレラ伝説」のあらすじは以下の通り。(いくっちさん、引用させていただきました。ありがとうございました)

シンデレラ伝説 子供が「シンデレラ」が学校で流行っているから話をしてくれと父親にせがむが、「シンデレラ」を知らないので色々な話を織り交ぜた創作「シンデレラ」を話していくというもの。話にリアリティが足りないと言って、狼に食べられたお姉さんたちを助けようとしたシンデレラがお腹を割いたら、すでにドロドロになってしまい、抱きかかえて泉へ連れて行くと石につまづいて泉に落としてしまい、泉の精が出てきて「あなたのお姉さんは、この金のお姉さんかい?」と・・・おいおい。最初にすべての話は「桃太郎」に繋がると言っていた様に、最終的に「シンデレラ」が「桃太郎」へと繋がっていく。新作落語を作り始めた頃に一番ウケていた噺だったそうで、あまりにかけすぎて飽きてしまったので最近ではやらない噺なのだとか。

いくっちの多忙な日常?! : 新作落語研究会 第二回オリジナル落語会「三遊亭白鳥研究(2)~~ほんとスゴいじゃん白鳥~編」 @ 上池袋コミュニティセンター – livedoor Blog(ブログ)

白鳥師の初期の新作で、師の特徴である暴走系ストーリーが垣間見える噺だけれど、師匠が演じると雰囲気は随分と変わる。起伏があるというか、子供の金坊にアクセントが置かれていて、ただ単に暴走するだけではなく、ちゃんとコーナリングしているように聞こえるから不思議。

■柳亭左龍 鹿政談

文左衛門師がすぐあとに来ると恐怖を感じるという左龍師。今までもマイクでオチを言われたり、マクラの時に乱入されたり。今日もマクラの時に私服で煙草を吸いながら舞台に上がってきた!冗談じゃなくホントにやるんだなぁ。喬之助師が「今日の中入り後は大変なことになりますよ」といっていたが、文字通り波乱の幕開け。でも左龍師、噺の方は気を取り直してキッチリと。豆腐屋六兵衛さんの正直さ、奉行松野河内守の格好良さが、師の端正な語り口とちょっと芝居かかった仕草と混ざり合って、マクラでのハプニングもなんのその、しっかりと最後まで聴かせてくれた。

■橘家文左衛門 天災

「私はね、暴力は嫌いなんですょ、そう言うヤツを見るとぶん殴ってやりたくなる」とマクラでひと言。師の演じる八っあんは、戸は開けるのではなくぶん投げる、相手が子供だろうが何だろうが容赦はしない。こういう凶暴さを持つキャラを演じさせると(先日見た「らくだ」もそうだが)天下一品の師だが、十八番の「道灌」と同じ、噺の構成は「オウム返し」のパターン。でもキャラの凶暴性は雲泥の差。このパターンの面白さは、そういう凶暴な人間がいつの間にか噺の中に丸め込まれて、説教される側から説教する側になる可笑しさなのだが、師の場合はその落差が激しいので余計にギャグがギャグとして成り立って面白さが倍増する。とくに前の話が政談ものだったので、こういった破天荒な噺は余計に客席を沸かせた。ちなみに八っあんが相談しに行く心学の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)先生は、長谷川町の三光新道に住んでいる。すなわち「百川」に登場する常磐津の師匠の歌女文字さんや、外科医の鴨池先生と同じところに住んでいるのですね。

■柳家喬太郎 次郎長外伝~小政の生い立ち~

中入りまでは時間が前倒しで進み、中入り後、左龍師、文左衛門師とたっぷり時間を取っての高座。喬太郎師のトリはほぼ時間通り始まる。3月14日はホワイトデー、そして忠臣蔵の松の廊下刃傷事件のあった日というマクラで始まった。この日はちょっと年齢層が高い客席だったせいか、このまま忠臣蔵の話題へ、「当代の噺家で忠臣蔵を配役すると」というお題をふったので、「これはカマ手本忠臣蔵か?*1」と思ったが、さすがにそれはやらず、忠臣蔵やこういった噺は講談やお芝居になっておりますといってマクラを切って、本題に入っていく。この噺、最近よくやっているようで、私自身も先週聴いたばかり*2。あの時は調子が悪いように見え噺全体に張りがないように感じたが、今日は違った。師匠の代バネ、トリとはいえ、寄席の気楽さもあるかもしれない、マクラからスムーズに噺の方へ進んでいった。聴いて分かるとおり、これは講談ネタで、よく二人会をやる神田愛山先生や芸協の日向ひまわり先生も語られている。何故、喬太郎師がこの噺をやろうと思ったのかは分からないが、圓朝物ほど気張ってやることもなく、かといって、ちょっと芝居かかった噺をやりたいなぁと思って選んだのかも知れない。確かに講談ネタであるからオチはないので、いわゆる「喬太郎落語」のファンには物足りないかもしれないが、次郎長の格好良さ、石松のコメディリリーフぶり、そして政吉(のちの清水の小政)のちょっと生意気な子供を演じる師は自身、実に楽しそうにそして飄々と演じているように見えた。そして講談ネタとはいってもそこは、喬太郎師のこと。ちょっとしたクスグリはしっかり入れてある。

次郎長「俺たちはなぁ、『商売往来』に載ってねぇ家業をしてるんだ」

政吉「『商売往来』に載ってねぇ家業? 噺家?」

次郎長「噺家がこんなドスのきいた喋りかたするか?文左衛門を除いて」

とか、「坊主、さっき屋根から落っこちやしねぇかったかい」(「天災」の引用)とか、石松が政吉に金を渡しながら「これは娘のおひさが、吉原の角海老って女郎屋に身を売って作った金だぁ」とか、いかにも喬太郎師らしい、ニヤリとさせるパロディ満載だった。これから後、「清水次郎長外伝」の他のパートをやるのかどうかはわからないけれども、これが師にとっては愛すべき小品で、寄席にかけても落語会にかけてもちょうどいい長さのものであるには違いない。おそらくこれからもしばしば聴くことの出来る持ちネタの一つになることだろう。

柳家小ゑん「鉄の男」

2009年3月12日

3月12日 3月中席昼の部@池袋演芸場

親の足に絡みついた子どもの腕を払いのけるような冷たい風が吹いた午前中。11時15分過ぎには池袋東口に着いたが、演芸場のチケツ売場の前には誰もいない。さすがのさん喬師でもそんなに平日の昼間からは並んでいないか、と思いつつ、昼の弁当を買いに東武百貨店の地下に行ってぷらぷらと廻ってみる。どれも美味そうだが、どうも今の財布にはキツイものばかり。諦めて一階に上がり、鋭角上の化粧をしたお姉さんたちのいる売場をすり抜けて、表へ出た。そこは以下にも池袋東口といったビルが建て込んだ路地裏だったが、サンクスを見つけたので、ドクターペッパーと、チキンサンド、ツナサンド、そしてあんドーナツを買い込んで、演芸場へ戻る。すでに5,6人の人が並んでいたが、直ぐに会場。池袋演芸場のいつもの指定席に座る。隣の席は着物を着るために遅くなるというブログの友人のためにとっておく。程なく無事に到着。でも、着物の人が隣にいるとちょっと緊張する。

柳亭市丸 饅頭こわい

柳家喬の字 牛ほめ

柳家喬四郎 新作落語

柳家喬之助 寄合酒

古今亭菊春 宮戸川(半ば)

入船亭扇遊 狸賽

柳家小ゑん 鉄の男(新作)

~中入り~

柳亭左龍  夢の酒

柳家権太楼 人形買い

柳家さん喬 百川

扇遊師の「狸賽」。サイコロの振り方とか以下にも三木助直系だなと思わせる。噺自体はのどかだけれども、博打に関するような男っぽい噺は扇遊師で聴いていると、いかにも、という感じがする。

小ゑん師の「鉄の男」。実は8日の黒門亭一部「鉄ちゃん、大集合!」と題した特集のトリで口演されていた。観に行きたかったのだが行けなくて、今度は何時やるのだろうと思案していたのだが、今日聴くことが出来て本当に幸運だった。マクラはいわゆる「オタク」のこと。寄席や落語会でメモを取り、それをブログに載せる落語ヲタのこと。私のほうを見ながら話すので「はい、そうです。そういうことをやっているのはこのわたしです。」と思わず肯いてしまった。そして自分が昔、電気街だった秋葉原に通っていたこと、そして今の秋葉原の変貌を語る。冥土カフェならぬメイドカフェのこと。ここでもしかしたら今日は「アキバぞめき」かな、と思ったのだが、そうではなかった。噺の方は、一人の鉄ちゃんが主人公。彼は女房に愛想がつかれても鉄ヲタとして日々コレクションに明け暮れているが、ある日鉄ヲタ仲間である景山に相談があると行って、呼び出される・・・・。今日は圓丈師の代演だったにも関わらずそのことにはひと言も触れずじまい。そして客席がどうであろうと(もちろん、考えてはいるのだろうが)、ガンガン自分のペースに引き込んでいくのは凄い。以前聴いた「アキバぞめき」と同じで、鉄ちゃんしかわからない用語がポンポン飛び出してくるのだけれど、それが何だろうと考える隙も与えずに笑わせる芸は師、独特のもの。特に後半、男と彼の友だち景山との会話で、景山がいかにもオタクらしい表情で受け答えするのが絶品。今日の芝居は、これを聴けただけでも大収穫だった。

「夢の酒」の左龍師。やっちゃいました。何度もやっている噺なのに、お囃子さんから助けて貰うこともある。これも生の人間がやっている落語ならでは。

今年初めて聴く「人形買い」。しかも権太楼師で。師の噺の中で一番好きな滑稽噺かもしれない。あとは家見舞(肥瓶)とか。二人のお調子者が調子よくやろうとして失敗する噺が好きなのだけれど。もっとも師はマクラで十人十色のネタを振ったので、「長短」か幇間ネタをやろうと思っていたのかも知れない。それにしてももう「節句」の噺をする季節になったのですね。

今日の「さん喬通信」は「四神剣」のレクチャーをみっちり。「江戸の三大祭りに『三社祭り』が入っていないのか」とか「座布団の房に意味は」とか。これでもう一つ、落語でもの知りになった。なっても仕方がないという声も聞こえてきそうだが。噺の方は、久しぶりに肩のこらない師の話芸を、こちらもまったくマッタリして聴かせてもらった。受け取り方によっては、地方人を馬鹿にしたという噺になるかも知れないが、ここでの主役はもちろん百兵衛さん。彼が栗きんとんを丸呑みする場面、さん喬師の百面相に大爆笑。

今日は宮戸川、夢の酒、人形買い、そして百川と春に相応しい噺が多かった。先日までの鈴本上席が、ゆく冬を惜しむ芝居だとしたら、今席池袋演芸場は、くる春を笑いで楽しむ芝居になりそうだ。