id:yotaro-3さんが、「ありがとう(もうじき)10万アクセス~落語の何が楽しいのか」ということで、何が楽しくて落語を見に行っているのかということを書いています。yotaro-3さんの場合、落語の楽しさの要素を「5W1H」に分けて説明していて非常に興味深いんですが、この記事のフォーマットに習ってわたしも書いてみたいと思います。何だか、このブログをやっている理由というか、言い訳というか、そういう感じになってしまいましたが。(笑)
■Who(誰が)
私の場合、演者がお目当てで高座を聴きに行くことも、もちろんあります。けれど特に贔屓にしていて、熱心に追っかけているという藝人さんは他の人より少ないのじゃないかなあ。自分の場合、雲助師、白酒師ぐらいなもので、それらの師匠にしても、自分の家から遠いところ、例えばにぎわい座であるとか、千葉の方とか、埼玉の方とかで開かれる会には二の足を踏んでしまい、そういうときに限って、聴きたかった演目がかかることが多いですね。さん喬師、権太楼師、喬太郎師、市馬師とか好きな噺家さんもいるけれど、一週間に一回は必ずとか、連チャンでとか、しない。そんなに聴いたら、飽きてしまうという恐れが自分のなかであるのと、これらの師匠の高座を聴く有難みが無くなるのじゃないかという気持ちもある。一ヶ月に一回、自分的に一番いいのは、春夏秋冬、季節ごとに1回聴くのが、ベストだと思ってます。その点でいうと、さん喬師の「さん喬独演会」はほぼ季節ごとに1回開かれていて、これさえ聴けばさん喬師については満足できるのではないでしょうか。
それと未体験の噺家さん、聴いたことのない噺家さんの落語会にもなるべく行くようにしたいと思っています。その理由はあとで書きますが、いまは寄席定席だけではなくて、それぞれのブログやホームページを読むことが出来ますので人柄、個性もわかりますから、興味を持つことが出来たなら行くようにしています。もっともやっぱり会に行く優先順位は好きな噺家さん、贔屓にしている噺家さんとは下がるので、そこのところは如何ともしがたいですが。
■When(いつ)
よくこれで5日連続で落語会に行った、とかいう話を聞ききますが、さすがにこれは出来ないなあ。経済的な問題で実現不可能なのと、そんなことでは翌日に差し障りが出てきてしまいます。私の基本的なパターンは週に2回、平日に1回と週末のどれかに1回。連休は別にして、週末でも連日、寄席、落語会に行くことはよっぽどいい噺家、いい演目でない限り、まず無いですね。これはこれ以上増やすと、聴いた高座の感想がブログにアップするのが遅くなるから。わたしは聴きに行った高座の感想は、間髪を入れずにブログにアップするのを信条としているからです。これ以上、行ったら仕事(今は勉強)のほかは全て落語になってしまいますし、そうでなければ、その時と聴きに行った高座のタイムラグがどんどん拡がってしまいます。またほんとうなら週のうち、1回は寄席、もう1回は落語会にしたいのだけれど、なかなか出来なくて、寄席に行くことが出来ていないのは大いに反省する点。もっと寄席に行かなければなりませんね。
それと、その当日にフラッと落語会や寄席に行くことももちろんあります。まえは3ヶ月も先の落語会のチケットを買っていたこともありますが、本当によっぽどのないかがりそういうことは無くなりました。そんな先のことはわからないし、他に行きたい会や寄席に当たるかも知れない。売り切れてなければ直前になって買うか、当日券を買う。それでダメならそれまでのこと、縁が無かったと諦める、そういう潔さも「落語を楽しむ」には必要、大切なのかもしれません。こんなところがまさに「一期一会」たる落語の所以なのでしょう。
余談ですが、チケット代というのも落語会に行くか行かないの大きな要素です。わたしの場合、
4000円以上~無限大→好きな噺家さんでも絶対行かない。というか行けない。
3000円~4000円→好きな噺家さんが出ていても大いに悩む。
2500円~3000円→好きな噺家さんで財布に余裕があれば。
2000円~2500円→好きな噺家さんだったら必ずいく。知らない噺家さんだったら悩む
1000円~2000円→好きな噺家さんだったら何をおいても行く。知らない噺家さんでも演目が良ければ行く。
1000円以下(無料)→好きな噺家さんだったら会場が遠くても行く。知らない噺家さんだったら近場であれば行く。
ちなみに寄席定席は、ユーラン社で売っている招待券や割引制度を有効に使って行っています。
■Where(どこで)
自分の場合、好き嫌いは余りないです。強いて言うなら、「演芸場」と名乗っているのに冷たい感じがする鈴本や、最寄りの駅からちょっと遠い国立演芸場でしょうか。でもここで開かれる会には絶対行かない、ということではありません。実際に何度行っているし、例えて言うなら行く度にスーツを着ていかなければならないところ、といったところでしょうか。むしろ、寄席や落語会は登場する藝人さんはもちろんだけれど、客の雰囲気や演目に影響されるものだと思っているので、よっぽどのことがないかぎり、会場に不満を持ったことはありません。逆に浅草見番なんて、最寄りの地下鉄浅草駅から10分ほど歩くけど、そこに行くまで、雷門をくぐり、浅草寺を通り、花やしき周辺のディープな場所を歩いてたどり着くので、高座を聴く前にすっかり気分は落語モードになっていますね。こういう場所が、あえていえば好きです。
会場で座る場所については以前も書いたことがありますけれど、芸人が出てくるのが見えて側の前方の席、最前列から2番目か3番目がベストですか。鈴本、末廣亭だったら下手、池袋だったら中央の通路から右側、やや上手側ですか。自分には何が何でも前列でという気持ちは全くなくて、むしろ後ろの席で高座を観ると、前方で観る高座とはまた違うものが見えてくる場合があります。たとえば「蒟蒻問答」とか「船徳」「不動坊」「七段目」などの仕草の大きな演目はそうです。
■What(何を)
多くいる落語ファンの中で少数派なのかもしれませんが、わたしの場合、たとえそれまで聴いたことのない噺家さん、贔屓にしていない噺家さんでも、好きな演目、興味のある演目であれば、見に行くことがあります。「らくだ」「百年目」「鰍沢」そして一連の圓朝もの、など。この噺家さんなら、この噺をどういう風に料理するのだろうとか。あと重箱の隅を突くようですけれど、噺のディテールをどういう風に描いているか、というの自分にとっては大切な要素。例えば、落語というと江戸時代のもの、と思われがちですが、実際はそうでもなくて明治、大正、昭和の初めなんてものも案外多い。「付き馬」とか「徳ちゃん」「お見立て」なんてそうですよね。そういう噺のなかで、それぞれの演者がどんな風に当時の風俗を表現するのか、に注目しています。
またネタだししていない会の楽しみというのは、会に行くまでのワクワク感と自分が予想していた演目を噺家さんがやってくれたときのヤッター感でしょうか。会の開かれる季節と、これまで噺家さんがやっていた演目と、二人会、三人会なら他の噺家さんの個性や得意な演目を考えて予想します。これまでに何度も聴いた演目や直前にやった演目と被れば、悔しいですが、たとえ予想が外れても、この噺家さんにこの噺?というな以外な噺を聴けることがあって、これはこれで嬉しく楽しいものです。
■Why(なぜ)
なぜ落語を聴きに行くのか。これを説明するのは一番難しい。「そこに山があるから」ならぬ「そこに寄席があるから」ということになるでしょうか(笑)。
でも意外に真実はそこにあるのではないかと思います。他の芸能、芝居や音楽会のように高いチケットを買って、着ていく洋服を決めて、いそいそ出かけていくのもいいでしょうが、何より寄席に行くのはフラっと行けるのがいい。これまで他の人が何度も言われていることですがね。それとわたしの場合、大爆笑してスカッとする、もちろんこういう時もあるけれど、それより所謂名演というものを聴いた時には、噺の内容と自分の今の状況とか過去の経験とか同期して、何ともいえない癒しを自分自身に与えてくれることもある。こういうことを期待して寄席や落語会に行く、という理由の方が強いかな。ネタ出しをしている会というのは、そういうものを事前から期待して行くこともあるけれど、ネタだししていない会、寄席でそういう高座に出会えた時の気持ちは表現できない。
人は誰でも嬉しいこと、楽しいことはもちろん、特に悲しいこと、寂しいことなど、ネガティブなことを誰かと共有したくなるものだと思います。具体的に言えばそういうことを家族、友人に話すことになるのでしょうが、落語を聴いて噺の内容が自分の経験や境遇、状況と同期すると、彼らに自分の気持ちに話して、理解して貰えることかどうかはわからないけれど、少なくとも話は聴いて貰えた、という安心感は生まれる、まさにそれと同じようなことが、わたしの場合は滅多にないこと、1年に1回あるかないかでしょうか、おこるような気がします。
■HOW(どのようにして)
このブログを読んで下さっている方はご存じだと思いますが、わたしは高座一つ一つの筋を追うようなことはしていません。それはあくまで自分の聴いた高座を自分の言葉で表現したいからです。そしてそれが自分自身にとって「文章を書く」ということの修業になるから、とも思っています。また同時に「落語の楽しみ」なのかもしれません。だから書いた文章に読んで下さった方からの温かいコメントを戴くとほんとうに嬉しくなるし、稚拙な文章で聴いた高座の素晴らしさが伝えることが出来たかな、と思うとこれ以上の喜びはないですね。落語ファン、それぞれにはそれぞれの楽しみ方があり、おそらく落語ブログを持っている人たちは、その楽しみを他の人たちにどう伝えようかと、記事を書くたびに思い悩んでいるに違いないと思います。わたしには今のこのやり方が一番あっているような気がします。
わたしにとっては、「落語家」が好き、というより「落語を聴くこと」が好きといったほうがいいかも知れません。何度もこれも書いていますが、贔屓にしている噺家さんも好きな噺家います。でも第一は「落語を聴くこと」が好きなんですね。真打、二つ目、前座、女流、上手、名人、下手、有名、無名は関係ないのです。藝の違い、序列香番の違いは関係ない。それぞれの個性がちゃんと表現出来てさえいればいいのです。噺家さんに好き嫌いは殆どありませんが、なるべくなら遠慮したいという人はいます。たとえば、師匠の藝が全てだと思いこんで、まるで師匠のクローンのような高座をする噺家さん。それと、こういう人は滅多にいませんが、客や贔屓筋に対して腰が低くない、高慢な噺家さん。こういう人は遠慮したいです。
こういう噺家さんの会には行くことはありませんが、たとい寄席の高座で当たってもこのブログでは感想を書くことをないでしょう。以前はこういう噺家さんに対しても否定的な感想を書いていましたが、ある時点から止めました。それまではそういうことを書いても、当の噺家さんが読めば少しは気にもしてくれるかなとも思いましたが、結局は否定的な感想というのは自分が書きたくないもので、それは自分の「落語の楽しみ」と反すると気がついたのです。それからは、贔屓にしている噺家さん、好きな噺家さんでもちょっと気になった時は書きますが、「いやぁ、これはダメだなあ」と思った高座は書きません。彼らだって人の子、調子のいい時、わるい時がある。ダメなこともあえて書きます、という人もいるでしょうが、以前は自分もそうでしたが、今では自分の「落語の楽しみ」が第一です。それに嫌なことを書くことはわたしも嫌だし、それを読む人も嫌なことだと思いますし。
■おまけ
以前、落語評論を書くことを生業としている人から言われたことがあります。
「落語に関して何かモノを書くためには、自分の好きなモノだけではなくて色々な高座を観た方がいいよ。その方が自分の肥やしになる」
これはいい言葉です。落語って人気者や名人上手だけで成り立っているわけではない。巧い、下手、有名、無名が入り混じっているからこそ、落語という世界が成り立っているということ。もし落語の基準が、噺が下手、名前が知られていない、というだけで切り捨てられていくのでは現実世界と同じじゃないですか。まだ私の知らない、どんな噺家さんがいるのだろう、どんな噺をどんな風に演じてくれるのか、ということが、今のわたしの「落語の楽しみ」であり「何が楽しくて落語を聴くのか」という理由であり、そのために足繁く寄席や落語会に通っているのです。