12月30日 快楽亭ブラック毒演会@浅草・木馬亭
ブラック 前説
ブラ之助 権助魚
ブラック 羽団扇
ブラック 一発のオマンコ
~仲入り~
ブラック 川柳の芝浜
ブラック 文七ぶっとい
ブラック師の落語会は初めて。ふつう落語会に行くと、開演前の客席はこれからどんな噺を聴かせてもらうのだろうという、明るくざわざわしたものがあるのだけれど、ブラック師の落語会にそれは皆無。ほとんどが男性で(2,3人の女性もいたが)客同士の会話もほとんど聴かれず、ひと昔もふた昔も前の名画座を思い出させる木馬亭の造りも相まって、それこそストリップ劇場で踊り子さんの出番を待つような雰囲気が客席にあった。
と、まず登場したのは「飛龍」と書かれた袢纏を着たブラック師が高座に上がった。まずは今回師匠のCDを渡すことが出来なかったことのお詫びから。CD制作の仲介を頼んだ業者が制作費を持ち逃げしたという。くわしい事情はブラック師のブログにて↓
http://kairakuteiblack.blog19.fc2.com/
この件については師のブログを読んでいただければ、そのほかに何も付け加えることはないのだが、師のこれまでを考えても、何だか節目節目にトラブルを抱え込むのだなぁ、と思ってしまう。ちなみに今回貰えなかったCDは次回引換券でもって交換できると思う。
前説を終えた師が袖に出てきたのは、弟子のブラ之助さん。当然のことながら、この日の開演前も色々と走り回っていた。茶髪でツンツン立たせた頭と細身の身体は、師匠とは不釣り合いだけれど、噺のほうはみっちり仕込まれている。最初は上下が怪しかったが、だんだん進むうち旦那と内儀と権助がきっちりと描き分けられ、メリハリもきちっとしていて聴いていて小気味いい。他の団体のあまり上手くない二つ目さんよりは、ずっと飽きさせずに聴かせる。
ブラ之助さんが下がると、ブラック師が登場、星条旗カラーの着物と袴である。DVDで見たときはそうでもなかったけれど、実物を観ると流石に眩しいな。一席目は「羽団扇」。
元々は上方落語で、この噺の前半部分が独立して「天狗裁き」になったというそうだが、そのとおり独立した「天狗裁き」よりもかなりスケールが大きい。江戸の頃、正月に七福神の絵を買って枕の下に引いておくと縁起のいい初夢が観られたという。それをまさしくマクラに女房から「どんな夢を見たんだい?」と問い詰められると、いきなり鞍馬山の天狗に飛ばされて、そこで天狗に問い詰められてもまだシラを切っていると、こんどは七福神の乗った船に飛ばされるというもの。町から山へ、そして海へといかにもスケールが大きな噺。そもそもが古典なのでエッチ度は少なかったが、これだけの大ネタでもそれは一席目だったせいか。
二席目は問題の「一発のオマンコ」。もちろんかつて世間に流布した「一杯のかけそば」のパロディである。以前聴いた雲輔師のバレ噺の「にせ金」では、師が「キンタマ」を連発していたが、師には一切のイヤらしさがなかった。ではブラック師の場合はどうか。思うにソープランドといわれるものが、「トルコ風呂」といわれていたころの郷愁をブラック師にアレンジしたものだということ。言葉だけ聞けばクスクス笑いを催すかも知れないが、師の語り口と「トルコ風呂」と言われていたときのその懐かしさは、やっぱりそれを知る世代じゃないと分からない部分があるのじゃないかと思う。ちなみに「トルコ風呂」が「ソープランド」と改称したのは1984年で今から26年前。そのころのことを知っているかと訊かれれば、「ノーコメント」と言いたいが、ただ噺の雰囲気だけは十分に分かるとだけ、言っておこう。
仲入りでは、ブラ之助さんがCD制作費を持ち逃げされた師匠の生活費のために、CD、DVDを売っていた。そこにお客さんが群がる、群がる。これは明らかに普段の普通の落語会でCDやDVDを売っている様子とは違う。
仲入り後は、再び星条旗カラーの着物、袴で登場して「川柳の芝浜」。川柳川柳師を主人公にした芝浜のパロディだが、ギャグやクスグリに出てきた実在の噺家がわたし的にはズレていて、ちょっとピンと来なかった。「一発のオマンコ」と同様の繰り返しの面白さが笑いが呼ぶのは確かだが、どちらかというと「一発の~」のほうが面白かった。
続けてマクラを振らずに「文七元結」ならぬ「文七ぶっとい」。噺の冒頭から中盤、長兵衛が文七に五十両を投げ渡す場面までは、かなりの本格派。同年代といっていいかどうか、さん喬師(さん喬師のほうが2年入門が早い)のようなリアリティはあまり感じられないけれど、ブラック師の歌舞伎や古い日本映画の知識が背景にあるのか、いかにも日本人の琴線に触れる語り口は十分に聴かせる。ところがそれがガラッと変わるのは、文七がお店に帰ってから以降。何しろお店は、日本橋の鼈甲問屋ならぬ、女性用の張方(はりがた)を扱っている「四つ目屋」である。以降はいくら何でもここでは掛けないので、実際にブラック師の高座を観ていただくか、その決断がつかない方は、こっそりとDVD、CDで聴いて欲しいが、人情噺の名作といわれている「文七元結」が180度打って変わって大爆笑話にしてしまう師の藝人魂というか、潔さはやっぱり凄い。きっとブラック師がキッチリと古典落語としての「文七元結」を演じても、おそらくそれなりに聴かせるし面白いとは思う。けれど、やっぱり普通の人の、特に男の下世話な関心事を噺に盛り込んでしまうのが、ブラック師の一番の持ち味であり、確かに人によってはそんな噺は下品だ、といわれるかもしれないけれど、それは雲輔師もやるような、藝人にとっては愛すべき(かもしれない)ジャンルであり、それを常に持ちネタとして堂々とやるブラック師はやっぱり噺家としては、本流とは言えないかもしれないけれど、間違いなく噺家としては他の同年代の噺家と語られるべきだ。
今年からは、場所をお江戸日本橋亭に変えてやるという「ブラック毒演会」。木馬亭の持つ淫靡な雰囲気が薄らぐのは残念だけれど、様々な落語ファンは今度からは行きやすいところなので、聴きに行ってもいいと思う。