Archive for the ‘日常’ Category

車内の出来事

2009年8月25日

先週の土曜日、一朝・市馬二人会の帰りの電車。一人の男性が乗ってきた。病気で左半身が不自由らしい。杖をつきながら座席に着く。車内は空いていて、男性も目的地までは座っていくことが出来た。

途中、男性は鞄の中からミネラルウォーターのペットボトルを出した。そして利き手の右手でキャップを開けようとしているのだけれど、ボトルを押さえる左手が不自由なのでなかなか開かない。座った両足に挟んで開けようとしても開かない。また水滴がボトルの表面に付いているから滑ってしまう。ボトルが倒れる、水滴で押さえていた又の間のズボンが濡れる。ひと苦労だ。

わたしは向かい側の座席に座っていて、それに気がついていたが、手伝って良いものか戸惑っていた。周りには何人か人がいたが、気がつかないのか知らないふりをしているのか、話に夢中になっているか眼を瞑っている。余計なお節介か、小さな親切か、そう思っているうちに、男性は左手の指を右手で一本一本広げペットバトルに沿えて、キャップをあけて水を一口、飲んでいた。

その前日だったか、談笑師の独演会、ゲストの家元の様子がブログに載った。その幾つかを読んだが、もう無理をしないでゆっくり休んで欲しいという声も聞いた。家元をいたわる気持は当然だし理解も出来るのだけれど、やっぱり家元の考えを第一に、周りが手を出さずにそのままにしておいたらどうか。

たとえば野球で言えば、200勝を目指す投手もいる。100勝を目指す投手もいる。一方で、長い故障から復帰してどうにかして一軍のマウンドに立ちたいと願っている投手もいる。ちょうど家元は、そんな這ってでもマウンドに立ってもう一度ちゃんと投げたいと思っているベテランの投手だろう。一方でペットボトルのキャップを開けた男性は、自分のことは自分でやることで自分の生き甲斐を見いだしているのか。もしかしたら、何でも人から施しを受けるようになったら、個人的な問題だが、彼にとっては生きていく価値が無くなるのかも知れない。

思うに、家元も同じように、ゆっくり休んでください、などと自身のことについて、周りからとやかく言われることは何もない、自分の生きていく価値は自分で見いだすと思っているに違いない。

カレーでない、カレー、松屋のトマトカレー

2009年8月19日

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わたしは食べ物にそれほど思い入れはありません。有名なラーメン屋の行列に並んでまでラーメンを食べようとも思わないし、これだけは食べておかないといられない、というものもない。先週の土曜日、たまたま東京駅のエキナカを歩いていたら、大勢の行列を見たので帰省列車の切符でも買うために並んでいるかな、と思ったら、何のことはエキナカのケーキ屋かなんかのケーキを買うために並んでいるのでした。また以前、アメリカの狂牛病の影響で吉野家の牛丼が販売中止になって、しばらく経った後復活したときまだ数量限定で販売再開されて、ネットで「吉牛(吉野家の牛丼)は日本の国民食ですからね」「家に持って帰って冷凍保存しますよ」なんて声を聞いたとき、まともなもとをちゃんとたべてないの?と思ったこともありました。

そんなわたしも、去年から今年にかけて、生活が荒れたというわけではないけれど、恥ずかしながら食べる物はコンビニ弁当ばかりということがありました。。確かにコンビニの弁当は作る手間がないので便利ですが、カロリー過多になりがちだし、なにより甘いものに目のないわたしは、コンビニによって弁当だけを買って帰るということはできません。それ以外のモノ、菓子パンやその他、何かしらの甘いものを買って帰ってしまうのです。

そのためからか、あるマイミクさんから面と向かって「太ったんじゃない?」と言われず、メールでそっと言われたときには、さすがのわたしも「あー、なんとかしなきゃいけないなー。」と思いつつ、そして訓練校入学前の健康診断で高血圧気味と注意されたとき、食生活を変えようと思い切って決めました。それからは、ごはん一杯と味噌汁、それに何かしらのおかずという食生活に変え、塩分を取りすぎるな、という医者からの忠告を受けつつ、何となく身体の調子も良くなっているような感じもします。

ところが、最近これはうまい!、ハマる!と思える食べ物を見つけてしまいました。それは松屋で最近販売開始された「フレッシュトマトカレー」。

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この松屋の「フレッシュトマトカレー」、カレーとは名乗っているものの、カレー粉のカの字も入ってはいません。どちらかというとスパゲッティにつかうミートソースがご飯にかかっている感じ。もっと正確にいうとこれともちがう。おそらくわたしの創造では、オリーブオイルでニンニクとタマネギを炒める。色が付いていいにおいがしてきたら、鶏の胸肉を入れて軽く炒めて、そのあと皮を湯むきしてざく切りしたまだ青臭いトマトを炒めつつ塩を少々、香り付けにローリエを煮込む。それでできあがりなのじゃないか、と思っています。もしかしたら出来上がる寸前に粉チーズを入れているかもしれません。ミートソースとは違って完熟したトマトホールを使っていないことで、また普通のカレーと違ってカレー粉を全く使っていないので、若いトマト独特の酸っぱさがどこか夏っぽい涼しさを思わせていいですね。それと値段がなによりリーズナブル。並盛り味噌汁付きで290円。これはランチ激戦区の飯田橋界隈でも最安値に違いありません。ま、自分の身体を考える人からすれば、ジャンクフードと同列なのかもしれないし、確かにこれほどコストを安くしているからには、どういう材料を知りたいということもあるけれど、あの味自体は、久しぶりに自分的にいける!と思えるものです。さっきも書いたように、決して自分で作れないようなレシピではないように思えるので、今度自分で作ってみましょうか。

落語は逃げない

2009年8月5日

8月に入ってから、ミクシィの日記やRSSリーダーで、他のブロガーさんのいろいろな寄席や落語会のリポートを読みながら、「いいなぁ、羨ましいなぁ」と思いつつ、ここ2,3日は「ま、しばらくは落語、いいか」という気にもなっています。いまこの段階では勉強と落語と、どちらを選ぶかと言われたら、勉強を選びますね。それは泣く泣くというわけでもなく、また進んでというわけでもないけれど、けっこうキッパリと選んでしまう、という気持です。こういうふうに思えてきたのは、マイミクさんがわたしのミクシィの日記のコメントに残してくれたひとことがきっかけでした。

「試験は一回だけど、落語は逃げないので・・・」

確かにそうですよねー。今聴きたい、あの噺家さんのあの高座・・・。と思っても、その噺家さんが生きている間には、いつかはまた巡り会えるわけだし。いや、もしかしたら巡り会えないかもしれない。

でもですねー、いまのわたしにとって勉強というのは、資格を取るということであり、それは仕事を得るための手段であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、もちろん楽しみでもなんでもないのですが、生きていく間には、訓練校に通っている半年間だけだ、ということもありますけれど、いままで愉しみといえば何より優先してきたわたしの生活の中で、こうやって例えば落語という愉しみを封印する時期もあったほうがいいんじゃないか、とも思えてきたんですね。こう書くと、わたしがまるで愉しみだけのために生きてきたという感じかもしれませんけど、それはこれまでやってきた仕事が、ただ単に生きていく糧を得るための最低限の事柄であり、そのために、私的な時間やその他諸々のことを費やしたくない、という思いが非常に強かったのですね。

それがいまはちょっと違う。それは我慢というものとも違う。愉しみとそれ以外の日常の事柄との折り合いが、まだわからないけれども、うまくつけられるようになったということでしょうか。生きていくためにやらなければならないことばかりに眼を向けて余裕がなくなるのでもなく、また私的な愉しみに耽って周囲のことに気配りしなくなるのでもない、そのへんのバランスがうまくとれるようになった、ということかもしれません。

わたしのいまの立場を理解してくれていて、また夏休みということもあって、いろいろと誘って戴いてくださるかたには不義理をしていると思います。大変申し訳ない気持でいっぱいです。どの高座を聴くかどうかは、しばらく以前から、チケットや予約を取ってあったものと、落語ブロガー仲間から融通されたものだけ、あとはその時の状況と自分の落語を聴きたい気持とを天秤にかけて決めたいと思ってます。

でもこの気持、いつまで保つかなー。σ(^◇^;)

昨日のこと

2009年6月13日

一晩明けて、朝はすっきり目が覚める。

正直にいうと雇用保険を貰うようになってから、目覚めは悪くないのだけれど、日中何故か気持ち悪かったり、気分が冴えなかったりすることが多くて、特に5日の選抜試験が終わってからは酷かった。わたしのような人間がこういうのは失礼かもしれないけれど、家に引きこもったり、鬱を病んでいる人ってこんな感じなのかなと毎日、何事も悪い方へ悪い方へと考えることが多くてたまらなかった。人間だれもが、どんなことでもいいから、目標をもって朝起きて夜寝るというのは大事な、と実感。これからがどうなるかわからない、不安な毎日はホントに身体、身にも心にも良くないのだな、つくづく思う。

昨日は飯田橋での発表があってから、神保町までプラプラ歩いて駿河台下の小諸そばで「深川冷やしそば」なるもので昼飯。そのあと古本街をしばらく冷やかし、@ワンダーで角川文庫「古典落語(七)芝居・旅ばなし」を315円で購入。さてこれからどうしようかと思案してると、マイミクさんからのメッセージで「早速、落語会ですか?」と。ほんとは、合格しようとしまいと、今日土曜日に浅草である快楽亭ブラック師の毒演会に行こうと思っていたのだが、二日続けて都心に出てくるのは懐具合にも苦しいし、「そうだね、落語会でも行くかね」と思ってかわら版をチェック。12日の欄に国立演芸場の「志ん輔・扇遊二人会」があって、そこには「完売御礼」とある。念のためダメ元で電話すると、「キャンセルが出たのでどうぞ」とのこと。演目が志ん輔「子別れ」「七段目」扇遊「心眼」「紙入れ」。志ん輔師の「子別れ」は落語百選のDVDで観ていて感激、印象深く、また久々の扇遊師も観たいということで、一枚予約する。

それから駿河台の坂を登ってお茶の水駅から新宿へ戻る。世界堂でちょっととした買い物をしたあと、新宿三丁目の喫茶室ルノアールでひとやすみ。隣の席ではオバサンたちが外人男性を相手に英会話のレッスン中。反対側の席では場所柄、左耳にイヤリングをし、明るいボーダー柄のシャツの前をあけた青年がお喋りに華を咲かせている。そうこうしているうちに、靖国通りを徒歩で国立演芸場に向かったのが午後5時半。いつも国立演芸場に行く時はこの道筋。四谷三丁目に近づくにつれ道幅が広くなり、思い思いの初夏の軽装をした人たちが明るい夕暮れの中をゆったりと歩いている。こういうの好きだな。生きているって感じがする。

タラタラ歩いていたら、新宿からタップリ45分かかって演芸場に到着、午後6時10分すぎだった。メールが入っていたので見てみると、マイミクのMさんから。ミクシィの日記のほうではこの落語会に行くことを書いていたので、それを読んでくれたらしい。すると中入りにはマイミクのNさんとも偶然出会う。そして彼女らの紹介で、顔だけは存じ上げていたYさん、MMさんともご挨拶、まさに「類は友を呼ぶ」とはこのことか。

落語会はたっぷり2時間50分のフルコース。久々にこれは落語という長講を聴かせてもらえた。この会の感想はまた別項で。

会がハネると、マイミクさんと別れ四ッ谷の駅まで歩く。ちょうど運良く中央通勤特快に乗ることが出来て、立川経由で青梅まで。自宅に着いたのが午後11時15分過ぎ。この時間に食べたら必ず脂肪として消化されず体内に残るだろうという夕食を食べながら、お祝いのブログ、ミクシィの日記のコメントに返事、全てが終わったのが午前2時。ちょっと胃がもたれたなと感じつつ爆睡。

曾我蕭白「松鶴山水図」

2009年4月10日

4月10日 「山水に遊ぶ 江戸絵画の風景250年」@東京・府中市美術館

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暇にあかせて行って参りました、府中市美術館。

先週の日曜日、朝起きて何気なく見ていたNHK教育日曜美術館で

取り上げられていた展覧会。何の予備知識もなかったのですが、それでも十分に楽しめました。

もともと風景写真とか風景画が好きな私でしたが、山水画というと、

中国の水墨画のような侘びとか寂びの世界をイメージしていたのです。

もちろん元々はそれから始まったのでしょうけれど、

それが発展して行くにつれ、もっとリアリズムを追求していくとか、

中国という外国の文化ではなく、自国日本としてのルーツを探るような作風になったりとか、

当時わずかに扉を開いていた西洋の画法を実験的に使用してみるとか、

そういう種々雑多な作風が入り交じっている、バラエティに富んだ作品が展示されていました。

個人的に気になったのが、小田野直武亜欧堂田善司馬江漢、。

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小田野直武(おだのなおたけ)「岩に牡丹図」(江戸後期)

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亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)「甲州猿橋之眺橋」(江戸後期)

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司馬江漢(しばこうかん)「七里ヶ浜図」

どれも山水画というより、西洋風景画といったほうがいい作品。そしてこれらが全てペリーが来航する前の江戸後期には既に描かれていたというのも凄い。

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これは小田野直武「岩に牡丹図」の背景にある民家の拡大図。完全な洋風民家ですね。

あと印象深かったのが今回の展覧会の目玉、曾我蕭白(そがしょうはく)の山水画。

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松鶴山水図

中国山水画特有の飛び出した岩などを描きつつ、いまの漫画・劇画にも通じるようなハッキリとしたタッチで描いているのには驚くし新鮮に感じました。

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石燈籠図屏風

この石燈籠(いしどうろう)図屏風は石燈籠の質感を出すために西洋画法的な点描で描いています。しかも背景の山並みはそれまでと同じ水墨画タッチの淡い色調で描いている。こういった新旧取り混ぜた実験的な画法を試みるといったところは、素人である私にもこの蕭白という人間が、画家というか、絵師といったほうがいいのかわかりませんけれども、天才だということだけは十分に理解できました。

展覧会を見終わった後、美術館がある府中の森公園を通っていくと、満開だった桜がもう散り始めていてピンク色の絨毯を敷き詰めているようでした。

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落語 de メタポ

2008年10月18日

1年前、私は痩せていました。

体重60キロは切っていたと思います。60キロを割ったら痩せているかどうかは別にして。

そのころは今の職場ではなく、自宅から10キロ離れた職場に毎日自転車通勤をしていました。

往復20キロ、時間にして合計1時間強。

自宅から職場の間の道のりは結構アップダウンが激しいので、それはもういい運動になりました。

自転車通勤をしていた1年半の間、10キロ痩せました。

ところが今の職場に移ってから、一年。

今の職場は自宅から20キロ、移った当初は残業もかなりあったので

さすがに疲れた体で往復40キロを毎日自転車で通うのはかなりキツイ。

そこで自転車通勤から電車通勤に変えました。

すると

「おおいつでも寄席や落語会に行けるじゃん!」

という思うようになりました。

自転車通勤をしていたころは、仕事がある平日の夜に

寄席や落語会に行くなんてことはありませんでした。

よっぽど行きたいものがあるときは有給を取っていました。

ところが電車通勤になり、残業も減って定時で仕事が終わること出来るようになると、

平日夜7時開演@お江戸日本橋亭なんて落語会にも、

多摩の片田舎からガァーと馳せ参じてしまいます。

それに電車の定期がある、というのも大きいですね。

以前は自宅から会場までの交通費というのは結構気になっていたのですが、

Suicaにチャージなんかをしているとそれもあまり気にならなくなる。

しかし、しかしです。そんないいことばかりではないのです。

最近、お腹まわりが気になってきた。

っていうか、ちょっと、いやだいぶ前から気にはしていたんですが。

「それで今何キロにリバウンドしたんだ?」って? そ、それは訊かないでください。

そもそもですねぇ、寄席や落語会というものが運動性に欠ける。当たり前ですが。

都内やその近くに住んでいる人ならばそれこそ自転車で行くことも出来るでしょうが、

たいていのファンは電車やバスで会場まで通うますよね。

しかも寄席であるならば最寄りの駅からも直近だし、

目の前の松坂屋だの伊勢丹だの東武だのデパートの「デパ地下」で弁当を買う羽目になる。

すくなくとも私はそうしてます。止められませんねぇ、寄席で飲み食いするのって。

そしてあの狭い座席に、2時間、4時間、いや1日8時間も拘束されるのです。

嗚呼、完全に鶏小屋のブロイラー状態、喬太郎師のお腹まわりが人ごとではなくなってきています。

寄席や落語会の開演前に、白鳥師の「お笑い落語体操」を取り入れないでしょうか。

あ、これは関係ないですね。

そんなことをつらつらと綴りつつ、今日も今日とて落語会に参ります。

午後は「NHK新人演芸大賞・落語部門」決勝を観に行きます。

これ決勝は公開なのですが、予選は非公開。

そのために5人残った決勝進出者がだれかわかりません。

ということで、ちょっとしたシークレット・ライブ状態。

ちなみにNHKに行くのも超久しぶりです。小学生の時、放送局見学で行って以来。

夜は夜で、歌武蔵師か喜多八師の独演会に行こうかと思っています。

天高く落語ヲタ、ますます肥ゆる秋。皆様もご自愛ください。

五街道雲助「汲みたて」

2008年8月25日

いくらなんでも処暑を過ぎて暑さが一段落したとはいえ、いきなりこの雨と寒さは無いだろう。昨日は一日中家にいた。久しぶり。

本当なら雲助師と喬太郎師が高座に上がる黒門亭と、白酒師が出演する地域寄席に行くつもり*1だったのだけれど、この天気で一変に気持ちが萎えてしまった。私の場合こんな雨と寒さの季節には一気にテンションが下がるというか、鬱になる傾向があって何処にも出かけたくなくなり、家の布団の中に潜り込んで冬眠する熊のように一日中寝ていたいという風な気持ちになることが多々ある。まぁ昨日のような天気じゃ誰でもそんな気分になるかもしれないけれど。

とりあえず今週は連チャンで落語会に行く予定が入っているのでいい骨休めになった、と考えよう。

そういうわけで、昨日はまったりと一日ゴロゴロ寝たり起きたりしがら、先週雲助師の「落語研究会」の時の高座を録画していたことを思い出した。

8月17日放送 BSーi 落語研究会 五街道雲助「汲みたて」

汲みたて – Wikipedia

「酢豆腐」や「蛙茶番」でも*2活躍する落語界一のプレーボーイ、建具屋の半公がここでも登場する。八、熊、ご隠居を除いて、性格が確立している登場人物としては与太郎の次に半公は、落語の噺のなかでは有名だろう。酢豆腐や蛙茶番と比べドジさ加減はあまりなく、もうちょっとで遊芸の師匠とイイことになりそうだったが、そこはそれ落語ですから、彼に嫉妬する八や熊にめちゃくちゃにされ最後には家見舞のようなオチが着く。

見所は何といっても終盤の夕涼みの場面で「ハメモノ」(BGM)が入ること。端唄の「お富与三郎」を唄い、都々逸を聴かせる雲助師がいい。また半公と師匠の仲を邪魔しようと八五郎たちが鐘太鼓でもってドンチャカ騒ぎをするところでの雲助師の賑やかな仕草が笑える。個人的にはいつもの師匠の高座の上でのクールな態度がいい、と思っているのだが、この場面でのアクションは別。師匠が真面目に真面目にやればやるほど可笑しかった。

この噺、一応暑い盛りの夏の噺だし、登場人物は多彩だし場面や状況は色々変わるし、そう簡単には出来ない難しい演目だとは思うけれど、雲助師はもとより権太楼師や白酒師、正朝師で実際に観てみたい。

*1:師匠の掲示板を読んだら、「転宅」と「佐々木政談」をやったらしい。やっぱり行くべきだった。

*2:「青菜」でもね

やっぱり「寄席」が基本でしょ。

1970年1月1日

ビクター落語会を聴くため田町に行く。

私自身にとっては田町という街、というか「田町」という駅に降りるのは初めてだが、ここは死んだ親父が学生時代を過ごした街である。

もちろんいまから50年以上前の話で、駅前にはどでかいオフィスビルも無かっただろうけれど、道路を隔てたゴチャゴチャした路地には何となく昭和の雰囲気が感じられた。

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昼の部ではジャマさんとご一緒させていただく。終演後、私は夜の部も観るのでその間の時間つぶしにジャマさんをルノアールに誘う。ジャマさん、付き合っていただいてありがとうございました。<m(_ _)m>

その中で色々なことを、まぁお喋りしたのだが、中でも興味深かったのは、今の寄席興行が何とかならないか、ということ。

なんでも今の10日興行は長いだろう。それを1週間興行に出来ないか。例えば週の前半、月・火・水は若手真打、二つ目を中心とした興行。週の後半、木・金・土・日は中堅、ベテラン真打を中心とした興行。それぞれ開いている日には独自の落語会も開くことも出来るし、何よりこのことで代演が減り、お目当てを見に寄席に来る落語ファンも増えるのではないか。

これは私の意見。

こういうことを考えたのは、今の落語ファンの中には落語会でしか落語を観たこと聴いたことが無い人が増えていると私が感じていることがある。もちろん落語会へは私も行くし、落語会を否定する気は毛頭ないのだが、だからといって寄席に行かずして「私は落語が好きです」と言われてモナ、と思うのである。

ふたたびもちろんだが、落語初心者に向かって「寄席に行こう!そうすればお気に入りの噺家がきっと見つかる」なんて書いてある、某「サライ」系の雑誌の言いたいことが、全くの幻想であるというのもわかるし、今の寄席の興行自体が硬直化して変化に乏しく、落語をしっかり聞きたいというファンのニーズに答えていないというのもわかる。

でも、やっぱり落語は「寄席」が基本でしょ。

寄席の落語って、音楽でいえば45回転ドーナツ盤って気がする。どうあがいてもせいぜい4分程度のヴァージョンでしかその曲を楽しめないし、楽しもうと思えばフルヴァージョンの収録されたアルバム、落語会の落語を聴かなければならない。でもそれはそれで、落語を聴いていく順序としてはこれでいいのではないかな。要するに寄席はジュークボックスみたいなもので、一人約15分の言わばドーナツ盤スタイルの高座で色々なタイプの噺家のに接することが出来て、そこから自分の贔屓を見つけたら、彼らのフルヴァージョンが収録されたアルバム、落語会を聴けばいい。それでも遅くはないと思うが。

いきなり落語会から落語を聴き始める、それも絶対間違っていると書くつもりはサラサラないけれど、ということをすると、「私は絶対喬太郎しか聴かないからね」「談春しか落語として認めん」というような、落語ファンとしてはちょっとヘンだなという風なことになってしまうのではないか。

ここまで書いてきて今更なんだけど、今回のエントリーを書いた理由というは、今日のビクター落語会夜の部でたまたま隣に座った男女カップルの話を偶然耳にしたから。

その会話というは以下のようなもの。この二人、三十代後半で最近落語を聴き始めたと思われる。

「喬太郎って、なんで古典やるんだろうね。ずっと新作やればいいのに。でもあの『手が机にくっついちゃうやつ(「ぺたりこん」のこと?)』はイヤ」

「(来月以降のビクター落語会の予定表を見ながら)何でコレが2回も落語をするわけ?コレとコレが1回ずつのはいいんだけれど」

これというのは噺家の名前のこと。ちゃんとチラシには噺家の名前が書いてあるにもかかわらず、カップルの女性の方は最後まで噺家のことを「コレ」としか言わなかった。

私は思わず「何だかなぁ、これでいいのかな」と思わず心の中でため息をついてしまった・・・。