先週の土曜日、一朝・市馬二人会の帰りの電車。一人の男性が乗ってきた。病気で左半身が不自由らしい。杖をつきながら座席に着く。車内は空いていて、男性も目的地までは座っていくことが出来た。
途中、男性は鞄の中からミネラルウォーターのペットボトルを出した。そして利き手の右手でキャップを開けようとしているのだけれど、ボトルを押さえる左手が不自由なのでなかなか開かない。座った両足に挟んで開けようとしても開かない。また水滴がボトルの表面に付いているから滑ってしまう。ボトルが倒れる、水滴で押さえていた又の間のズボンが濡れる。ひと苦労だ。
わたしは向かい側の座席に座っていて、それに気がついていたが、手伝って良いものか戸惑っていた。周りには何人か人がいたが、気がつかないのか知らないふりをしているのか、話に夢中になっているか眼を瞑っている。余計なお節介か、小さな親切か、そう思っているうちに、男性は左手の指を右手で一本一本広げペットバトルに沿えて、キャップをあけて水を一口、飲んでいた。
その前日だったか、談笑師の独演会、ゲストの家元の様子がブログに載った。その幾つかを読んだが、もう無理をしないでゆっくり休んで欲しいという声も聞いた。家元をいたわる気持は当然だし理解も出来るのだけれど、やっぱり家元の考えを第一に、周りが手を出さずにそのままにしておいたらどうか。
たとえば野球で言えば、200勝を目指す投手もいる。100勝を目指す投手もいる。一方で、長い故障から復帰してどうにかして一軍のマウンドに立ちたいと願っている投手もいる。ちょうど家元は、そんな這ってでもマウンドに立ってもう一度ちゃんと投げたいと思っているベテランの投手だろう。一方でペットボトルのキャップを開けた男性は、自分のことは自分でやることで自分の生き甲斐を見いだしているのか。もしかしたら、何でも人から施しを受けるようになったら、個人的な問題だが、彼にとっては生きていく価値が無くなるのかも知れない。
思うに、家元も同じように、ゆっくり休んでください、などと自身のことについて、周りからとやかく言われることは何もない、自分の生きていく価値は自分で見いだすと思っているに違いない。