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「ターミネーター4」を観る

2009年6月23日

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久しぶりの通勤電車。しかも都内まで出るのは、何十年ぶりである。

でも昔に比べると、すくなくとも中央線は混み具合がよくなったと感じた。昔はホント国分寺あたりからメチャクチャな混みかただったもの。わたしの場合、始発の駅から乗って座っていくことが出来るので混雑に煩わされることはないのだけれど、それでも自分の前に立っている人に圧迫されるような感じがして、決して居心地のいいところではない。それにみんな静かだ。誰もが、新聞を読んだり携帯を見たり、あるいはぐっすり眠ったり。自分がいつも乗っている時間は、高校生がお喋りしたり子供たちが騒いだりというような時間なので、それと比べるとあんまり静かすぎて、薄気味悪くなるぐらい。

職業訓練校の入校受付に行く。そこで初めて半年間、訓練を受けるほぼ30人の顔ぶれを見る。やっぱり自分が一番年下らしい。指導員の人からは、これから半年間ちゃんと目標を持って訓練を受けて欲しいこと、また訓練校は就職するための訓練を行うためところだから、個人の我が儘はきかないということを肝に銘じて欲しいということを念を押される。そうしないと、半年後に結果として、就職できるかできないか、如実に表れるとのこと。確かに中には、単に雇用保険の延長だけを目的に職業訓練校を受けようとする人間もいるらしい。そういう人にかぎって訓練についていけず、途中で脱落することも多いという。確かに税金を使って授業料はおろか、交通費やその他諸々の手当が出るのだから、しっかりやっていかなければと思う。それに今回のように高い倍率で、訓練校に入りたくても入れない人たちがほとんどだったのだから、その人たちのためにもちゃんとやらなければいけない。

受付が午前10時から始まって、約30分で終わったので暇を持てあます。このまま帰ってもよかったのだけれど、折角なので新宿まで出てプラプラすることにする。

西口に出て、前から興味のあったキングジムの「ポメラ」を見て歩く。「ポメラ」は大きさ、ほぼDSを一回り大きくした感じ。ふたを開けて折りたたみのキーボードを広げて、電源を入れると2秒で立ち上がる。通信機能はないけれどSDでバックアップできるし、USBでPCやMacとも繋がる。「デジタルメモ帳」と銘打たれてるけれど、まさにその通りでわたしのようにもう紙に手書きで何かを書くということが出来なくなった人間には重宝する。ディスプレーはふた昔前のワープロ機を思い出させるが、もともとこれは「メモ帳」なのだからそれで構わない。何よりすぐに立ち上がって、さくさく文章が打てるのがいい。わたしは高座を聴いたときの感想でも、その他のものでも極力時間をおかずにブログにアップするということを大切にしている。それは時間が経って記憶が薄れてしまうというのが防ぐためというのもあるけれど、一番の目的は、寄席や落語会の感想だったら、時間が経つことでその場の臨場感とか雰囲気とかが失われることをイヤだということもある。これがあれば、落語会をハシゴするちょっとしたあいだでも、帰りの電車の中でも印象を忘れないうちにササっと書くことが出来る。このところが、一番気に入っているところ。先月、乗り換えたプロバイダーから来月キャッシュバックのクーポンが送られてくるので、それを使って買おうかな。

松屋で昼飯を食べて、新宿通り沿いにある「新宿ピカデリー」に行く。

去年出来た比較的新しいシネコンだが、ここは会員になると、といっても、煩わしい個人情報の記入といったことはなくただカードをもらうだけなのだが、6回の有料鑑賞で1回タダ、そして何よりもいいのは、平日の興行ならばスクリーンから一番近い、一番前の席つまりA列の席だと1000円で封切り映画を観ることが出来る。そしてこの1000円割引き鑑賞も有料鑑賞としてカウントされるのだ。そのことを以前から知っていて、いつ行こうかなと思っていたのだけれど、今日は午後が丸々空いていたし、ちょうどういい、久しぶりに新作を観ることにした。どれを観ようか、ちょっと悩んだが以前のシリーズも観たことがある「ターミネーター4」を観た。

原題はTerminator Salvation。訳せば「ターミネーター 救世主」といったところ。前3部作で断片的に語られていた核戦争後の人類と高機能コンピュータネットワーク、スカイネットが率いる機械軍との全面戦争を描いている。そして人類の救世主となるジョン・コナーが以下にして救世主となっていくのかという、新三部作の第一弾、いわば「ジョン・コナー・ビギンズ」といっていい。

それにしても、映画の続編というか、シリーズものに数字をつけるようになったのはいつ頃からだろうか。わたしが覚えている限りでは、「ジョーズ2」(1978)ぐらいからじゃないか。それ以前は例えばターミネーターのようなSF映画でも「猿の惑星」(1968)などでは「続・猿の惑星」(1970)「新・猿の惑星」(1971)「猿の惑星・征服」(1972)「最後の猿の惑星」(1973)となっていた。映画じゃないけれど、團伊玖磨のエッセイ「パイプのけむり」は続き物でも「続々」とか「さてさて」とか「なおかつ」とかで全27作続けていた。単に数字をカウントしていくだけじゃ、面白くないと思うのだけれど。もっともこれからターミネーターシリーズが続いたとして、「さてさてターミネーター」とか「これまたターミネーター」というのは、間が抜けていて、これじゃドリフのコントになってしまう。

閑話休題。

肝心の映画の方はどうだったかというと、SF映画にありがちな現代批判のようなニュアンスを巧みに織り込んでいるのがユニーク。核戦争後の世界ということで砂漠が舞台というのはわかるけれども、どうもイラク戦争を思い出さざるを得ない。例えば僅かに残った人類が機械軍側に捕まって収容所のようなところに連れて行かれる場面があるのだけれど、そこに出てくる人たちが皆英語が喋れなかったりするのだが、そういうところは、不法に拘束されたイラク人たちをイメージさせる。スカイネット=機械軍=アメリカ、抵抗軍=イラクの抵抗勢力といったところなのか。また戦闘場面でコッポラの「地獄の黙示録」のオマージュと思える場面が幾つもあって、それも微妙にイラク戦争に繋がるところがあるように思える。あとはシェリー作「フランケンシュタイン」での父親探しのモチーフも入れていたような気がする。ジョン・コナーが自分の父親となるカイルを救いにいくためにスカイネット研究所に侵入するエピソード、謎の男マーカスが「こんな体にしたヤツを捜し出す」と叫んで同じようにスカイネット研究所に乗り込むエピソードなど、ある意味、どうして自分がここにいて、これから何処に行くのだという疑問を解くことがこの映画のモチーフのひとつになっているように感じた。

俳優ではクリスチャン・ベールがいい。母親サラ・コナーのテープに聴き入る姿は、好演した「バットマン」シリーズでのブルース・ウェインと共通するトラウマを持った人間としてジョン・コナーを演じている。逆にサム・ワーシントンはイマイチか。元死刑囚としてのワルさ加減が初めからあまり出ていない。元々が凶暴で次第に人間性を取り戻していくという形にしてもよかったかもしれない。懐かしいのは、ロボコップの悪役で出演していたマイケル・アイアンサイドが出ていること。そしてティム・バートンのパートナーでもあるヘレナ・ボナム=カーターも出演している。またジョンの妻、ケイトを演じるブライス・ダラス・ハワードは「天使と悪魔」の監督、というか、わたしの世代にとっては「アメリカングラフィティ」のスティーブ役のロン・ハワードの娘である。

映像的には冒頭の戦闘場面に迫力がある。特に抵抗軍の兵士のひとりの眼となって動き回るカメラワークは新鮮。ただし途中、コナーとマーカスとの絡みが少ないせいもあってストーリーが緩慢になり中だるみに陥るところがある。後半になって前3部作でもお馴染みのターミネーター同士の戦いということになるのが、これは前作を見ている人間からすれば「また同じことをやっている」ということを感じるかも。せっかくの冒頭で用いられたカメラワークも使われず凡庸。そしてラストの次作につながるオチも、第一作で見ることの出来た、不安で不毛な未来を感じさせるものではあまりなくタイトルクレジット前のエピソードと巧く繋がったという大団円的なもので、「あー、こんなものかな」という感じ。またあきらかなスピルバーグの「トランスフォーマー」や「宇宙戦争」、ベールが主演した「ダークナイト」などのあからさまなパロディがあって、「そこまでやるか」ということも感じた。

言ってしまえば、何を観ようかと悩んだあげくこの映画を観てしまうと、アクションシーンはそれなりに迫力があって楽しめるが、過去のシリーズとの絡みや引用が判らず(ベールが”I’ll be back”と言ったのには笑った。)少しばかりストーリーについて行けなくなることがあるかもしれない。もちろん前3作をミッチリ観ているような「ターミネーター」ヲタには十二分楽しめる作品だろう

4時半には映画館を出る。まっすぐ帰ろうと駅に向かうが、中央線乗り継ぎの連絡が悪くて構内のベッカーズでひと休み。来週からはいよいよ通学だ。

KINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM10シロ パールホワイト

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川島雄三「幕末太陽傳」

2009年6月18日

6月16日 川島雄三監督作品特集@早稲田松竹

川島雄三監督作品「幕末太陽傳」(日活:1957年制作)をみる。

落語をエピソードとして取り入れた作品として有名だが、以前、同じように落語をエピソードとして取り入れた作品、山田洋次の「運が良ければ」(松竹:1966年制作)を観ている*1。同じ落語を基にした映画であっても、「幕末太陽傳」のほうは取り入れられた噺、「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」「付き馬」それぞれをバラバラにして映画全体に混ぜ合わせたという感じがするが、「運が良けりゃ」のほうは「らくだ」「突き落とし」「妾馬」などがうまくつなぎ合わせているという感じがする。ちなみに落語監修は両作品とも安藤鶴夫。

『幕末太陽傳」という作品全体、その底辺に流れるのは「死」のイメージである。主人公フランキー堺演じる佐平次が映画の最初のほうからすでに「肺病」と告白するし、犬猫の死骸があからさまにクローズアップされたり、ラストの墓場での場面(「お見立て」からの引用)の寒々しさなどは、それまでの土蔵相模での騒々しさとは表裏をなすものだ。佐平次の人物造形は自分自身持病を持ち、女性と次々と関係を持っては堕胎をさせていたといわれる川島監督の投影である、という説は有名だが、それは落語の世界、江戸の市井の男の生き方とも言えなくはない。

ところが、こういうダークな主人公をあくまで陽気に見せたのが、全編にわたる品川宿の遊郭の場面。そこでは現存する土蔵相模の資料を入念に調べ上げ、実物と同じスケールの作り上げたセットのなかの女郎や客、店の若い衆の姿が素晴らしい。まるで日本の時代劇であることを忘れさせるようである。特に小春(南田洋子)とお染(左幸子)の板頭を巡る殴り合いの長廻しや、相模屋の男衆が廊内を走り回る場面でのカメラの横移動などは、色も恋もチャンパラもないのにもかかわらず、遊郭の喧噪だけでハリウッド全盛時グランドホテル方式の映画を彷彿とさせる。

またちょっと表面上は陽気でも陰のある佐平次にくらべ、彼を取り巻く登場人物は皆陽気だ。小春とお染を演じた南田洋子と左幸子は、おそらく現代に花魁が蘇ったらこんな感じになるだろうと演じているし、あばたの金蔵(品川心中)を演じた小沢昭一は、お染との心中に失敗しネコの死骸を抱えて品川の海から上がってくる場面はまさに怪演。

そんななかで特に気に入ったのは若旦那徳三郎を演じた、梅野泰靖である。最近では三谷幸喜監督作品に出演し、有名なところでは「ラヂオの時間」の戸田恵子演じる「千本のっこ」のマネージャ-「古川清十郎」役で有名。この若旦那、落語の世界とは全く違い、八面六臂の大活躍。女郎屋を営んでいる因業な父親(金子信雄)、母親(山岡久乃)から、親(大工の長兵衛)の博打の借金のカタになってしまった娘、おひさ!を救うため奔走する。もちろん道楽者で騙されやすいのは落語と同じだけれども、ちょうどこれは、この映画が公開されたその時代の若者の象徴だったかもしれない。同じ若者といえば、当時の日活のスター、石原裕次郎、小林旭、二谷英明を脇役にした長州の志士にも、同じように無軌道でありながら、何かにむかって走らなければならなかった若者像を的確に描いていたと思う。


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こういった陰と陽がうまくメリハリがついて絡み合っているために、スラップスティックコメディとして映画そのものに一本筋が通っている。だからこそ上映時間2時間弱のあいだ、厭きることなく物語の世界を楽しむことが出来るのであり、今の時代でも十二分にこの物語が通用する証拠。その点、山田洋次の「運がよけりゃ」のほうは、山田の性格というか作風というか、また落語のエピソードをつなぎ合わせたという感じが強いせいか、落語の人情噺の面に重きを置いているようで、その点では川島と比べて暗い笑いが多いように思われる。派手なアクションというか動きを求めるのであれば、俄然「幕末太陽傳」に軍配をあげるが、描いている世界が全く違うので(「幕末太陽傳」は遊郭、「運が良けりゃ」は裏長屋)、寅さん的な笑いを求めるのなら、山田の「運が良けりゃ」だろう。ただこれは監督の性格というよりも、制作年度の違い、たった10年だが、1957年と66年の差といえるかもしれない。

最後に両作品の意外な共通点。

主人公を演じたフランキー堺とハナ肇。ごぞんじのようにどちらもコメディアンでかつ、ジャズドラマー。落語の世界の騒々しい登場人物は、リズム感の豊かな人間が演じたほうがよいのだろうか。

幕末太陽傳 コレクターズ・エディション [DVD]

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山田洋次「運がよけりゃ」

2009年4月29日

山田洋次が監督した「落語ネタ」満載の時代劇第一作。というか時代喜劇と言った方がいいかもしれない。その後36年後に「たそがれ清兵衛」(2002)、それに引き続き「隠し剣 鬼の爪」(2004)「武士の一分」(2006)と本格時代劇3部作を撮った。

運が良けりゃ [DVD]

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後の時代劇3部作では徹底的なリアリズム、武士の月代を剃らなかったり、当時の実際の明るさに準じた夜間の撮影など、が貫かれているが、1966年制作のこの作品でもその精神ははやくも取り入れられている。汚水が溢れる路地やそれこそ「吹けば飛ぶよな」長屋風景、通りすがりの物売りの姿など、あくまでも現実感があるもので、今でもよく見られる凡庸な時代劇とはことなる。なお時折、背景に水路を行き交う舟が見られることから、舞台は深川あたりかと思われる。

引用されている「落語ネタ」は、「突き落とし」「付き馬」「寝床」「妾馬」「さんま火事」「黄金餅」「らくだ」。ただしネタがまるごと取り入れられているのは「突き落とし」と「さんま火事」で、他のネタは設定を変えている。例えば「寝床」は大家が店子に説教をする場面に置き換えられているし、「妾馬」は熊五郎が赤井御門守の屋敷に行って大騒ぎして妹の輿入れを破談にするし、「黄金餅」や「らくだ」では金をくるんだ餅を食べて死ぬのは長屋にすむ元お産婆の因業な金貸し婆で、長屋の追い立てを企む家主の近江屋で熊五郎が婆の死体でかっぱれを踊る、という設定になっている。それらのエピソードはストーリーの中への引用の仕方が巧みで、そして「高砂や」や「蜘蛛駕籠」をもとにしたギャグもあり、落語ファンなら文句なく楽しめる。落語監修はアンツルこと、安藤鶴夫。

出演は植木等、谷啓をのぞくクレージーキャッツの面々。ハナ肇が熊五郎、犬塚弘が八五郎を演じている。熊五郎の妹、おせいに倍賞千恵子、その他、「突き落とし」の廓の番頭にに藤田まこと、「黄金餅」の火屋の隠亡に渥美清がゲスト出演。特に印象的だったのはおせいを演じた倍賞千恵子。山田が監督した前作「霧の旗」で無実の兄を見殺しにした弁護士に復讐する妹という暗い役から一転、初々しく元気な娘を演じて印象的。またどうしようもない若旦那を演じた砂塚秀夫*1。日大芸術学部で歌舞伎研究会に入っていたそうで、独特の台詞廻しは抜群。見た目は「酢豆腐」に出てくる若旦那そっくりでケッサク。

映画のなかで面白かったギャグを一つ。「突き落とし」のエピソードで廓の番頭(藤田まこと)と長屋の連中の会話。どんちゃん騒ぎをしたあとの翌朝、大工の棟梁のつもりの若旦那が見得を切る。

若旦那:揉めたところでしかたあるめぇ、大事な建前しくじりゃ、三百両からの大仕事逃す

    ってわけだぁ、ヤケでもう一晩騒ごうじゃねぇか!

番頭 :お客さん、そいつはいけませんや

若旦那:いけませんって、なにかい、なら、馬一匹よこすのかい?

番頭 :へえ、しかたがありません、この番頭がお供させていただきます。

若旦那:え、おめえが馬かい?

番頭 :あっしが馬じゃお気に召さない、とでもおっしゃるんで・・・

熊五郎:いやいや、ピッタリだよ(全員爆笑)

緒形拳さん、死去

2008年10月7日

俳優の緒形拳さん死去、71歳 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

朝一番のニュースで知る。

71歳か。私の父親が死んだのと同じ歳だな。

先月末まで普通に食事をし、仕事もしていたという。

ちなみに緒方さんはベジタリアン。

人間の人生なんて、どこでどう終わるか分からない。

緒方さんといえば、「復讐するは我にあり」をはじめとする一連の今村昌平監督作品が有名だが、

ここ10年ぐらいは来た仕事はみんな引き受けて、好きな俳優という仕事、映画のために何かしようという心持ちが感じられていた。

なにしろあの石井隆監督の「GONIN2」にまで出ていたぐらいだから。

私的に好きなのはテレビの仕事だが、やっぱり「必殺仕掛人」の梅安。

原作者の池波正太郎は、新国劇を出て行った緒方さんが梅安を演じることに当初わだかまりがあったという。

あと印象的な映画といえば、日本未公開だがこれかな。「Mishima: A Life in Four Chapters」


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Mishima: A Life In Four Chapters – Wikipedia

三島側のプライベートな問題で難しいのだろうが、一度は大きなスクリーンで観てみたい。

ともかくも合掌。

ポール・ニューマン死去

2008年9月28日

末廣亭の深夜寄席がハネたあと、映画ファンの友人からメールが入った。ポール・ニューマンが死んだ、という。

Paul Newman dies at 83 – CNN.com

asahi.com(朝日新聞社):ポール・ニューマンさん死去 「明日に向って撃て!」 – おくやみ

朝日の記事にあるように去年の5月には俳優を引退、今年の6月にはがんで闘病中だと公になったことでこうなる日も近いとは持ってはいたが。

私が一番映画を観ていた中学から高校にかけての洋画のアイドルの一人がニューマンだった。50年代からスタートして活躍している人で、たいていの人はロバート・レッドフォードと共演、ジョージ・ロイ・ヒル監督と組んだ「明日に向かって撃て!」や「スティング」を代表作とあげるのだろうが、私にとっての一番の代表作はスティーブ・マックウィーンと主演したパニック映画「タワーリング・インフェルノ」。意識してニューマンの映画を観たのがこれが初めてだったからだ。


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ニューマンは、今でいえばハリソン・フォードとブルース・ウィリスを足して2で割ったような役者。「アメリカの良心」を演じるかと思えば、アル中のダメダメ男を演じる。マーロン・ブランドから始まったアメリカ男優の系列のなかでデニーロやパチーノなどのイタリア系とはちょっと異なるセクシーな役者だったように思う。

私の好きなニューマンの映画。

動く標的(1966 原題:Harper)


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ロス・マクドナルドの同名ハードボイルド小説の映画化。原作の、特に後期の人間の業を全て背負ったような暗い物語ではない、あくまでクールでタフな私立探偵を描いている。別れた妻役で出ているジャネット・リーとのラブシーンはセクシー。この映画をDVD化しない日本の関係会社はハッキリいって与太郎である。即DVD化するように。

暴力脱獄(1967 原題:Cool Hand Luke)


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微罪で入獄したのにも関わらず何度も脱走してそして戻ってくる謎の男、ルークを熱演。生卵50個食い競争の場面が圧巻。60年代アメリカ南部を描いた映画はこれと「夜の大捜査線」(1967)で決まり。*1

*1:暴力脱獄と製作年が偶然同じ。

ダークナイト(2008)

2008年8月12日

『ダークナイト』『ブレードランナー』(とクーロン) – 平坦な戦場で愛し愛されて生きるのさ

id:stilllifeさんが『ダークナイト』とリドリー・スコットの『ブレードランナー』を関連づけていたけれど、それにインスパイアされて、ちょっと感想を書く。以下、ネタバレあり。

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私はどちらかというと、『ブレードランナー』より同じリドリー・スコットの『ブラックレイン』に共通点を感じる。撮影後にヒース・レジャーや松田優作が亡くなったこと。究極の悪としてのジョーカーと佐藤(松田が演じたヤクザの名前)。『時計じかけのオレンジ』のマルコム・マクダウェルの演技からヒントを得たレジャーと、歌舞伎の「見得」からヒントを得たという松田の演技。どちらもナイフの使い手(佐藤の場合は『ドス』というべきか)。何より、リアルな都市としてのシカゴと大阪が舞台となっていることが一番の共通点だろう。

また『ダークナイト』でデントとレイチェルがジョーカーの策略で拉致された以降のエピソードは、『ブラックレイン』でアンディ・ガルシア演じるチャーリーが佐藤一味によってなぶり殺しにあうエピソードと同じ緊張感がある。

余談だが、もしアメコミ版フランク・ミラー原作の『ダークナイト・リターンズ』を映画化するとしたら、ブルース・ウエイン/バットマンはマイケル・ダグラスがいいと思うのだが(あるいはアレック・ボールドウィン。どちらもちょっと歳を取ってはいるけれども)。

バットマン:ダークナイト・リターンズ – Wikipedia

もちろん『ダークナイト』が持つ現代性は、今この時代に生きる私たちにこの映画を単なるヒーロー映画、エンターテイメントとして語らせない重さがある。特に爆破現場に佇むバットマン(911でのWTCの消防士を思い出させる)や終盤の囚人護送のフェリーと一般人が乗船したフェリーとの緊迫したやりとりなど、物語を勧善懲悪で終わらせない。何しろバットマンはジョーカーを捕まえる為に重火器を使ったり一般人の電話を盗聴したり、中国系マフィアのボスをマネーロンダリングの証人とするために、香港まで越境して拉致してくるのだ!

何よりこの映画の最大の不条理は、究極の悪であるジョーカーが生き残り、究極の善であったデントは狂気に堕ちて悪のトゥーフェイスとなり死んでいき、バットマンはトゥーフェイスの罪を被って孤独な戦いを続けていくところ。

色々なところで語られているけれど、これは決して子供が見ることの出来るようなスーパーヒーロー映画ではない。テロの時代に生きる私たちの心の中に深く沈澱する映画なのだ。

最後の最後に一言だけ。ところどころでこの映画、バットマンの映画で『バットマン』の名が入っていない初めての映画と言われているが、「ダークナイト」はバットマンの愛称・別名で、アメコミ好きのアメリカ人(という言い方もヘンだけど)にとってはダークナイト=バットマンなんだけれども、その辺のところがわかってもらえてない。

「座頭市物語」(1962)

2008年8月5日

8月2日 上野スタームービー

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昭和37年制作のシリーズ第一作。監督:三隅研次、音楽:伊福部昭、出演:勝新太郎、天知茂

小説でもそうだが、時代劇でこの座頭市のような「アウトローもの」って何処か同性愛的な匂いがする。この映画の市と平手造酒との関係もそう。最後の市との対決の後、平手が「どうせ死ぬならおぬしに斬られて死にたかった……」とつぶやき絶命するところなんかはその象徴。剣に命を託した男同士の友情という以上のものがある。そういえば私の好きな池波正太郎の「仕掛人藤枝梅安」シリーズの一冊「梅安乱れ雲」では衆道の関係にある二人組の暗殺者が梅安や彦次郎、十五郎を襲うし、そもそも彼ら仕掛人の関係自体に衆道の雰囲気が漂う。ちなみにこの「梅安乱れ雲」のラストの決闘シーンはシリーズの中でも白眉の場面。絶命する暗殺者は敵役ながら、読んでいて哀れさを誘う。

今の映画や小説ではどうだかわからないが、この「座頭市物語」と同時期の時代劇や池波正太郎、柴田錬三郎らの時代小説を観たり読んだりすると、その時代や作家個人の死生観がよく出ていると思う。「仕掛人~」は、氏の他のシリーズ「鬼平」「剣客商売」と比べずっと短いにもかかわらず、その趣きはそれらよりもずっと色濃い。「座頭市物語」でいえば平手の台詞のなかで、市の剣を一目で「生きるための剣」と見抜き「俺はその逆だ」とつぶやく場面がそうだ。酒に溺れ荒んだ用心棒生活を送るうち、胸を病み自身の命の短さを悟る平手。一方で市の剣の中に不思議な友情を抱き始める平手。刹那的ともいえるこの感情が、平手を演じる天知茂の名演もあってこの映画の根底に横たわっている。

もちろん映画としての魅力も満載。冒頭の市が博打をするシーン。おそらくタランティーノも影響を受けているに違いない。そして市が襲われる直前の顔のアップ、おでん屋の娘との月夜の淡いラブシーン。ここで市は娘にこんな台詞を言う。

「この世に見たいものはなかったが、あなたの顔だけは見たくなった」

ホントにいい台詞だ。

もちろんアクションシーンもいい。オープンセットを使った笹川の繁蔵一家と飯岡助五郎一家との大喧嘩のシーン。長さ的には及ばないものの、その迫力は「七人の侍」での雨中の戦闘シーンと個人的には匹敵する。またこの映画を語る時、必ず出てくるラストの市と平手の決闘シーン。無駄なカット割りなしに勝と天知のアクションだけで魅せる演技は、もう今日の映画では見ることができないほど素晴らしい。ここで監督の三隅は平手の心音を入れようとしたらしい。まさに命消え行く平手を表現するには絶妙な表現だが、当時の大映のワンマン社長永田英一に非現実的だということでカットされたという*1

そしてラスト、市は卑怯な手段で勝負に決着をつけた助五郎に白濁した眼を見開きながらの悲痛な叫ぶ。が、彼は助五郎を斬りはしない。その気持ちを心の奥底に沈澱させながら、淡い想いを寄せた娘にも無言で別れを告げ去ってゆく。ここにも平手とは別の意味での、市の虚無感が漂っている。

勧善懲悪という通俗的な時代劇のカタルシスとは無縁だが、独特の世界観を味わうにはもってこいの映画である。

座頭市物語 [DVD]

座頭市物語 [DVD]

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」

2008年6月24日

6月23日 東京・昭島MOVIX

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前の三作、全て劇場でリアルタイムで観ているので、普段あまり映画館に行かない私でも公開後すぐに観に行きました。

以下、ネタバレありです。

もともとスピルバーグ監督の映画はその初期(「激突!」のころ)からサスペンスの盛り上げ方の上手い監督だな、と思っていたんです。実際「ヒッチコックの再来」とか「後継者」とかとも言われていたんです。けれど、私のフェバリット映画の1本である「未知との遭遇」以降の「ある1本」を除いて、子供じみた感覚の映画が自分に合わなくて彼の映画から随分遠ざかっていました。シリアス路線の「プライベート・ライアン」や「シンドラーのリスト」「ミュンヘン」などを監督しても、どうしても敬遠する部分があったのです。

「インディ・シリーズ」については前作「最後の聖戦」以降、色んな噂が立っては消え立っては消えて行きました。日中戦争中の満州を舞台に日本軍と戦うとか、今作のモチーフの一部になったロズウェル事件を舞台にするとか。しかし全三作から20年近くたってもまだ製作されなかったものですから、このシリーズに関する思いも次第に薄れて行きました。

しかし作品が製作開始され完成し、やっぱり宣伝であのジョン・ウィリアムズの「レイダーズ・マーチ」が聞こえてくるとお尻の辺りがむずむずしてきて、前三作をリアルタイムで観ている私としては、最近映画館からは縁遠かったけれども兎にも角にも観なければ映画でありました。

シリーズ恒例のパナマウントのロゴ(CGでなく絵のヤツ)が実際の山(またはそれらしきもの)とオーバーラップするオープニングから懐かしさがこみ上げてきました。話のあらすじはだいだい事前にわかっていたので、ストーリーを追うよりも(もともとこのシリーズのストーリーなんてご都合主義だから気にしない)どれだけわくわくさせてくれるだろうということだけを考えていました。

結論から言えば、ハリソン・フォード主演の「インディ・シリーズ」を締めくくるには相応しい大パロディ映画だったということですね。他の評やブログでも書かれていますが、前三作からの引用はもちろん他のスピルバーグ、ルーカス、フォードの映画からの引用多数で、そこらへんがやり過ぎだとおっしゃるむきもあるかもしれません。でも個人的には前半の軍の倉庫でエイリアンを解剖する場面とインディがFBIから尋問を受ける場面が好きですね。あれは「未知との遭遇」のパロディでした。

私にしてみれば「未知との遭遇」以降の大好きな「ある1本」である、「1941」を彷彿とさせてくれて、楽しい映画でしたよ。「1941」は公開当時「ジョーズ」「未知と遭遇」で飛ぶトリを落とす勢いだったスピルバーグが監督した念願の戦争コメディ映画だったのですが、評価は散々、興行的にも大失敗した大パロディ映画でした。それ以降スピルバーグはコメディを撮ることはせずSF、アクションとシリアスものに集中して行くわけですが、ここにきてまた大パロディ映画を作ってくれて、「個人的にはやったね!スピちゃん!」という感じで拍手でした。

そういうことを知らない若いファンは、何度もインディたちが乗る水陸両用車が滝から落ちたり、ラストのUFOのシーンを何だかなぁと思ったり、インディが冷蔵後に入って被爆するシーンに不快に思ったりするでしょうけど、「1941」を観ている私としては「あんなもんで驚いてはいけない。『1941』のラストの観覧車のシーンや三船敏郎の扱い方を観ればそんなシーンなんでもない」とも思ったりするわけです。ですから、若い映画ファンには是非「1941」を観てほしいな。これを観ればこの「インディ・ジョーンズ」最新作の評価が変わるかもしれない。特に原爆の場面。ネットではこの場面を批判する評も多いようですが、あれは50年代アメリカの反共プロパガンダ映画のパロディなんだよ。ドキュメンタリー「アトミックカフェ」に納められているようなね。

1941 (映画) – Wikipedia

8月にはDVDも発売されるようです。

閑話休題。

おそらくこれでハリソン・フォードの「インディ・ジョーンズ」は終わりになるのでしょう。何しろ長年想い想われの関係だったインディとマリオンが結婚するのですから。そういう意味ではこの映画でのインディは若い世代の為のヒーローではなく、熟年・団塊の世代のヒーローなんでしょうね。つまり前作「最後の聖戦」でショーン・コネリーが脇役であったのに対して、今作「クリスタル・スカルの王国」では前作のコネリーの役回りになるフォードから見た冒険アクションということなんですね。またラストの結婚式のシーン、何でも無いシーンですけどマリオンの幸せそうな顔が良いなぁ。それにしてもマリオン役のカレン・アレンは美しい。外見が美しいということではなくて、年相応の美しさ、年代を重ねた美しさ、可愛らしさというのが出ているのですね。そういえば彼女の主演した「スターマン」も良かった。今の彼女主演で続編をジェフ・ブリッジスと作ればいいのになぁ。

スターマン/愛・宇宙はるかに – Wikipedia

ハリソン・フォードの「インディ・ジョーンズ」は終わってもおそらくスピンオフ、シャイア・ラブーフのインディ・ジョーンズは製作されることでしょう。実際スピルバーグとルーカスはパラマウントと「インディ・シリーズ」5作品製作契約を結んでいるそうなので、少なくとも続編があと一つは作られる可能性はあります。実際この第四作でもラブーフがインディの後を継ぐと思わせるシーンが幾つかありますし、またそれは「最後の聖戦」のパロディにもなっています。

まぁ次作が作られるとしたら、フォードは完全な脇役になるでしょう。それも致し方ない。それはそれで渋さを増した彼の活躍が楽しみであり、ラブーフの活躍も楽しみです。

それにしても次の作品は舞台はどこだろう・・・。日本人を悪役にしてほしいな、個人的には。それこそ坂本龍一教授とか敵役にして。