8月28日 橘家圓太郎独演会「圓太郎商店 独演その1」@池袋演芸場
柳家小んぶ 寿限無
橘家圓太郎 ちりとてちん
~仲入り~
橘家圓太郎 中村仲蔵
圓太郎師にとっては、これが初めての独演会、というか勉強会だったそう。そういえば一門会の「本日のおすすめ」やビクター落語会などの有名な落語会で他の噺家さんと高座を競ったことはあったけれども、これまで単独で落語会を開いた、というのは聞いたことがなかった。ということで、今回は「中村仲蔵」がネタだしされていることもあり、出かけてみた。
開場時間に間に合うようにいってみると、すでに開場されていて席はほぼ満席。う~ん、根強い人気があることを実感。年齢層はやや高めだったけど、師のもう一つの顔であるトライアスロンの仲間の皆さんも来ていたようだ。
和尚さんが名前を考える小んぶさんの「寿限無」のあと、師が高座に上がる。師のマクラは面白いことを言って客席をドカンドカンを沸かせるわけではないけれど、独特のユーモアとアイロニーがある。それはまるで聴いていると、ほっとした気持ちになるミルクティーに、毒が入っているような気持ち。その毒に犯されてしまうと、たちまち師の高座の世界に入っていくことが出来るのだ。たとえば今回はドラマ「ちりとてちん」の話。あれが流行っているとき、何度もやってくれと言われたが、決してやらなかった。けれども最近上方落語の桂文我師にあったとき、「あれは上方落語ですよね」と言われて突然やる気になったという。ここらへんが一席目の「ちりとてちん」の皮肉屋の六さんに繋がって、本題に入っていく。
実をいうとこの「ちりとてちん」、会場に入ったときにもらったプログラムに書いてあった。しかし今日はすでにネタ出ししてある「中村仲蔵」がメインで、あくまでも滑稽噺としての「ちりとてちん」を、客席を暖めるためにいつも寄席でかかるような感じでサラッとやるのだとばかり思っていた。ところがどっこい、マクラも含めて40分の長講。たいていこの噺は、落語を知らない人も題名だけは知っているということもあり寄席でもよくかかるけれど、ほとんどが時間の関係で端折りに端折った高座になる。ところが圓太郎師は本寸法も本寸法、それぞれのエピソードを膨らませてガッチリ聴かせてくれる噺となった。「ちりとてちん」という名は、女中のおきよが近頃、三味線に凝って毎晩「ちりとてちん♪」とやっていることや、もちろん、このネタの目玉である食べる場面。前半の世辞を言いまくる金さんのそれや、後半の皮肉屋の碌さんのいちいちケチをつけるそれは、これでもかこれでもかというほどやった。けれどもそれがしつこくならず聴いている側の頭の中でもたれないのは、師自身がデフォルメの境界線をちゃんと認識しているからだろう。
仲入り後はネタ出しされて「中村仲蔵」。「一丁上がり」で再び高座へ。マクラで元々芝居噺は好きじゃない、と言った。「中村仲蔵」だって高校生の時、末廣亭で先代正蔵師の高座を聴いて「なんて面白くない噺だ」と思ったという。「淀五郎」にしたって、結局は「外見だけを取り繕う話じゃないか」と。「誰がやるものか」とも思ったそうだが、それがどうしてやろうと思ったのかは秘密だそうだ。前半は仲蔵の生い立ちから名題として取り立てられるまで。後半は仲蔵が忠臣蔵五段目、定九郎の役を振られて苦悩する仲蔵が描かれる。こちらも90分近い長講だった。といっても、さん喬師や雲助師のような、端正という意味での話の進め方ではない。それはいい意味でそれは裏切られる。どちらかというと波瀾万丈の立身出世物語という色合いが濃いのだ。そのためか一時間にも迫ろうという長講であるにもかかわらず、途中で入れごとを多く入れて聴き手を飽きさせない。この手のやり方は、時に物語が脱線してしまいがちだし、客によっては拒絶反応もおきるかもしれないが、聴き手の集中力をちゃんと本筋に戻すのは師の芸の力と言うべきもの。そして後半の芝居の場面、特に仲蔵が新趣向の定九郎で役に臨む場面では、グイグイ客を引っ張っていくスピード感があった。またこの話の見所の一つ仲蔵と女房のやり取りも、師の演じる女房は異性というより母性を感じさせるので、愛情を全面に出すことなく、逆に芝居の同志としての夫を励ますという感じが、師のヴァージョンと合っていて良かったように思う。
圓太郎師、これまでは寄席の彩りとなる中堅真打ちの一人と思っていたけれど、今回聴いてみて、落語を脳天気に明るく喋ることもなく、逆に妙に深刻ぶって語ることもない、あえていうなら中道ともいえるその高座に、思わず納得してしまう長講二席の会だった。
次回は10月21日、「抜け雀」他一席とのこと。