Archive for 2009年8月

橘家圓太郎「中村仲蔵」

2009年8月29日

8月28日 橘家圓太郎独演会「圓太郎商店 独演その1」@池袋演芸場

柳家小んぶ 寿限無

橘家圓太郎 ちりとてちん

~仲入り~

橘家圓太郎 中村仲蔵

圓太郎師にとっては、これが初めての独演会、というか勉強会だったそう。そういえば一門会の「本日のおすすめ」やビクター落語会などの有名な落語会で他の噺家さんと高座を競ったことはあったけれども、これまで単独で落語会を開いた、というのは聞いたことがなかった。ということで、今回は「中村仲蔵」がネタだしされていることもあり、出かけてみた。

開場時間に間に合うようにいってみると、すでに開場されていて席はほぼ満席。う~ん、根強い人気があることを実感。年齢層はやや高めだったけど、師のもう一つの顔であるトライアスロンの仲間の皆さんも来ていたようだ。

和尚さんが名前を考える小んぶさんの「寿限無」のあと、師が高座に上がる。師のマクラは面白いことを言って客席をドカンドカンを沸かせるわけではないけれど、独特のユーモアとアイロニーがある。それはまるで聴いていると、ほっとした気持ちになるミルクティーに、毒が入っているような気持ち。その毒に犯されてしまうと、たちまち師の高座の世界に入っていくことが出来るのだ。たとえば今回はドラマ「ちりとてちん」の話。あれが流行っているとき、何度もやってくれと言われたが、決してやらなかった。けれども最近上方落語の桂文我師にあったとき、「あれは上方落語ですよね」と言われて突然やる気になったという。ここらへんが一席目の「ちりとてちん」の皮肉屋の六さんに繋がって、本題に入っていく。

実をいうとこの「ちりとてちん」、会場に入ったときにもらったプログラムに書いてあった。しかし今日はすでにネタ出ししてある「中村仲蔵」がメインで、あくまでも滑稽噺としての「ちりとてちん」を、客席を暖めるためにいつも寄席でかかるような感じでサラッとやるのだとばかり思っていた。ところがどっこい、マクラも含めて40分の長講。たいていこの噺は、落語を知らない人も題名だけは知っているということもあり寄席でもよくかかるけれど、ほとんどが時間の関係で端折りに端折った高座になる。ところが圓太郎師は本寸法も本寸法、それぞれのエピソードを膨らませてガッチリ聴かせてくれる噺となった。「ちりとてちん」という名は、女中のおきよが近頃、三味線に凝って毎晩「ちりとてちん♪」とやっていることや、もちろん、このネタの目玉である食べる場面。前半の世辞を言いまくる金さんのそれや、後半の皮肉屋の碌さんのいちいちケチをつけるそれは、これでもかこれでもかというほどやった。けれどもそれがしつこくならず聴いている側の頭の中でもたれないのは、師自身がデフォルメの境界線をちゃんと認識しているからだろう。

仲入り後はネタ出しされて「中村仲蔵」。「一丁上がり」で再び高座へ。マクラで元々芝居噺は好きじゃない、と言った。「中村仲蔵」だって高校生の時、末廣亭で先代正蔵師の高座を聴いて「なんて面白くない噺だ」と思ったという。「淀五郎」にしたって、結局は「外見だけを取り繕う話じゃないか」と。「誰がやるものか」とも思ったそうだが、それがどうしてやろうと思ったのかは秘密だそうだ。前半は仲蔵の生い立ちから名題として取り立てられるまで。後半は仲蔵が忠臣蔵五段目、定九郎の役を振られて苦悩する仲蔵が描かれる。こちらも90分近い長講だった。といっても、さん喬師や雲助師のような、端正という意味での話の進め方ではない。それはいい意味でそれは裏切られる。どちらかというと波瀾万丈の立身出世物語という色合いが濃いのだ。そのためか一時間にも迫ろうという長講であるにもかかわらず、途中で入れごとを多く入れて聴き手を飽きさせない。この手のやり方は、時に物語が脱線してしまいがちだし、客によっては拒絶反応もおきるかもしれないが、聴き手の集中力をちゃんと本筋に戻すのは師の芸の力と言うべきもの。そして後半の芝居の場面、特に仲蔵が新趣向の定九郎で役に臨む場面では、グイグイ客を引っ張っていくスピード感があった。またこの話の見所の一つ仲蔵と女房のやり取りも、師の演じる女房は異性というより母性を感じさせるので、愛情を全面に出すことなく、逆に芝居の同志としての夫を励ますという感じが、師のヴァージョンと合っていて良かったように思う。

圓太郎師、これまでは寄席の彩りとなる中堅真打ちの一人と思っていたけれど、今回聴いてみて、落語を脳天気に明るく喋ることもなく、逆に妙に深刻ぶって語ることもない、あえていうなら中道ともいえるその高座に、思わず納得してしまう長講二席の会だった。

次回は10月21日、「抜け雀」他一席とのこと。

車内の出来事

2009年8月25日

先週の土曜日、一朝・市馬二人会の帰りの電車。一人の男性が乗ってきた。病気で左半身が不自由らしい。杖をつきながら座席に着く。車内は空いていて、男性も目的地までは座っていくことが出来た。

途中、男性は鞄の中からミネラルウォーターのペットボトルを出した。そして利き手の右手でキャップを開けようとしているのだけれど、ボトルを押さえる左手が不自由なのでなかなか開かない。座った両足に挟んで開けようとしても開かない。また水滴がボトルの表面に付いているから滑ってしまう。ボトルが倒れる、水滴で押さえていた又の間のズボンが濡れる。ひと苦労だ。

わたしは向かい側の座席に座っていて、それに気がついていたが、手伝って良いものか戸惑っていた。周りには何人か人がいたが、気がつかないのか知らないふりをしているのか、話に夢中になっているか眼を瞑っている。余計なお節介か、小さな親切か、そう思っているうちに、男性は左手の指を右手で一本一本広げペットバトルに沿えて、キャップをあけて水を一口、飲んでいた。

その前日だったか、談笑師の独演会、ゲストの家元の様子がブログに載った。その幾つかを読んだが、もう無理をしないでゆっくり休んで欲しいという声も聞いた。家元をいたわる気持は当然だし理解も出来るのだけれど、やっぱり家元の考えを第一に、周りが手を出さずにそのままにしておいたらどうか。

たとえば野球で言えば、200勝を目指す投手もいる。100勝を目指す投手もいる。一方で、長い故障から復帰してどうにかして一軍のマウンドに立ちたいと願っている投手もいる。ちょうど家元は、そんな這ってでもマウンドに立ってもう一度ちゃんと投げたいと思っているベテランの投手だろう。一方でペットボトルのキャップを開けた男性は、自分のことは自分でやることで自分の生き甲斐を見いだしているのか。もしかしたら、何でも人から施しを受けるようになったら、個人的な問題だが、彼にとっては生きていく価値が無くなるのかも知れない。

思うに、家元も同じように、ゆっくり休んでください、などと自身のことについて、周りからとやかく言われることは何もない、自分の生きていく価値は自分で見いだすと思っているに違いない。

瀧川鯉之助「へっつい幽霊」

2009年8月24日

マクラが大事。

8月23日 第9回角庵寄席「瀧川鯉之助独演会」@東京・駒込カフェ角庵

粗忽の釘

湯屋番

~仲入り~

へっつい幽霊

(演者はすべて瀧川鯉之助)

鯉之助さん。キャラは客を選ばないし、噺もわかりやすくでいいと思うだが、マクラがどうもイマイチ。確かに初めてやる落語会で客層が読めず、完全アウェー状態で高座にあがったのはやむをえないけれど、自分や自分の周りのことをネタにしても客はついてこないことがある。あと自虐ネタもやりすぎると、聴く方が引いてしまう。それは別に知る必要がないものだもの。客が演者に共感するようなマクラを振って自分のペースに引き込むことが大事大事だと思う。

歌武蔵師匠のマクラに「自己紹介」というのがある。師匠が今日、寄席に来るまでにどんな道順でやってきて最後に何かがおこるという「自己紹介」だが、聴き手は最後まで師匠がどうやってきたのか興味を持ちつつ、最後のオチでニヤリとしてしまうのだ。そうなれば、聴き手は完全に歌武蔵師匠のペースにハマって高座を楽しむことになる。

師匠は以前に、マクラも噺のウチの一つ、しっかり稽古してやれ、と自身の弟弟子に言ったことがある。全てを書き出して台本を作って稽古して高座にかけよ、というのだ。この言葉を聞いたとき、マクラがうまい何人かの噺家さんを思い出して、なるほどな、確かにそういう人たちは、手持ちの駒としてのマクラを自分の引き出しに幾つも入れておいて、それこそその日の天候や客層、自分の気分を考えてマクラを話しているんだ、と思った。そしてそういう人たちは、大抵噺も面白い。つまり自分で作ったマクラをちゃんと構成してTPOに応じて、話すことの出来る噺家は、本題の演目のほうもちゃんと構成して聴き手を噺の世界に引き込むことができるのだ。

客として聴くと共感出来ないマクラは、噺家さんにとって非常に不利だと思う。自身が面白いということが、聴き手に面白いとは限らない。そのことを鯉之助さんがわかってもらえれば、十分に面白い噺家さんだと思う。仲入り前は不慣れな二席連続ということで、サゲで噛んだり多少の言い間違えがあったけれど、鯉之助さんの得意の若旦那が登場する湯屋番は好きな一席。いまでは使わない言葉を言い換えたり、今風なクスグリを入れてわかりやすい高座だった。わたしは鯉之助さんのやる粗忽者より、若旦那が好きで、それは彼の噺家としてのいいところがうまく表現されているような気がするからである。

一方、仲入り後の「へっつい幽霊」。席亭さんから何か怪談話を、といわれて、今は出来ないからと選んだ噺とのこと。噺の出来としてはよかったけれど(お金の単位、300円と300両をゴッチャにするところがあったが)、鯉之助さんの良さが裏目にでて、何か怪談話なのに、どこかムーミンでも出て来そうなホンワカとしたムードの噺になってしまった。遊び人の熊五郎はもっとヤクザに、ワルに演じたほうがよかったし、若旦那はもっと子供っぽく描いたほうがよかったし、ラストの幽霊と熊五郎の博打の場面も、博打打ちとしての熊の本質がもっとギラギラと出ていたほうがよかったように思う。

マクラが変わると眠れないというが、では、いつも使っているマクラだとよく眠れるのか。そうとも限らないだろう。いずれにせよ、睡眠でも落語でも、マクラは大事。ぐっすりと夢の世界に入っていく入り口だから、もっと気を使うことも、噺家として聴き手を楽しませるには大切なことだ。

春風亭一朝「淀五郎」

2009年8月23日

8月22日 三田落語会「一朝・市馬二人会」@東京・三田仏教伝道センター

柳家小んぶ 子ほめ

柳亭市馬  粗忽の使者

春風亭一朝 天災

~仲入り~

柳亭市馬  あくび指南

春風亭一朝 淀五郎

残暑が厳しくて、田町の駅から会場まで歩いてくる道のりに少し堪えた。マイミクでもあり落語ブログ仲間でもあるA女史から、ひょんなことからチケットを譲っていただき(ありがとうございます)、これまたブログ仲間のジャマ氏氏を誘ってやってきたこの会だが、そもそもは10月に同じ三田落語会で行われる「白酒・一之輔二人会」の先行発売チケットが買える、という軽い気持でやって来たのだった。

小んぶさんの「子ほめ」。この前の「せんのは落語会」では途中入場でしっかりと聴けなかった。このまえも書いたけれど、随分と上手くなりました。笑いの壺をしっかりと自分なりに押さえてやっているし、登場事物の描き分けも出来ていたようにおもう。小太郎さんが二つ目になって、新しく入った前座さんが下に一人と、色々と雑用も大変だろうけれども、頑張ってほしい。

何度聞いても市馬師の「粗忽の使者」が、なぜ可笑しいのか。それは職人と侍の口調や仕草の使い分けが出来ていて、その対比が可笑しさを呼ぶのだと思う。特に前半のダレるところをそれで見事にカバーしているから、後半がもっと可笑しさを呼ぶのだ。

一朝師の「天災」。仕草も口調も派手でない、本寸法の構成。以前の文左衛門師の派手な「天災」と比べて印象が薄い、と書いたことを深く反省している。あくまでも視覚的ではないというだけであり、目をつぶり耳で聴いていると、それだけでも可笑しくなってくるというのは、やはり最後の「噺家らしい噺家」の中のひとりという証拠か。以前、寄席で聴いた高座とは違い、当たり前だが、入れごとやクスグリが違っていて、グッと聴かせて笑わせる噺になっていたのも印象的だった。そして乱暴者の八五郎が紅羅坊名丸によって素直に改心するところも、いかにも登場人物の人の良さがストレートに現れていてよかった。

仲入り後、再び市馬師で「あくび指南」。師では初見。これも若手が派手にやる噺で、どんな感じで師はやるのかと思っていたけれど、あくまでも市馬師らしいものだった。大袈裟ではなく柳家らしい軽い滑稽噺として笑わせた。なお師の「あくび指南」は、女師匠目当てで行くヴァージョンではなく、珍しい稽古事を冷やかしにいくというヴァージョン。

トリは一朝師で「淀五郎」。実際、こんな地味な噺をやるとは思わなかった。黒の紋付きを着て高座に上がってきたから、時期は違うかもしれないが、「妾馬」でもあるのかと思った。そうしたらマクラで自身が二つ目の時、歌舞伎座で横笛を吹いていたことを話し出す。もっともこのことは市馬師が「あくび指南」のマクラで芸人の習い事というで紹介していたので、話す気になったのかもしれない。そしてその上で、「淀五郎」を選んだのかも知れない。余談だが、あまり私事をマクラで話すことの少ない噺家だとは思うが、自分の歌舞伎座でのエピソードやお内儀さんとの馴れ初め*1などを語ったのは貴重。

噺自体は、前にも書いたように物語は地味で平坦。以前の喬太郎師の「カマ手本忠臣蔵」を演じる会のゲストでこのネタをやった左龍師は熱演だったけれど、喬太郎師を聴きに来ている客の大半は舟を漕いでいたと思う。それはちょうどこの噺の淀五郎が熱演すればするほど、その熱心さが空回りしたの同じ。逆に一朝師は芸の懐の奥深さで、噺の世界に引き込んでいく。團蔵が淀五郎の芝居に文句をいうべらんめぇ調のところや、仲蔵が淀五郎の仕草を見ながら「こりゃ下手だわ」と何度も表情が変わっていくところ、そして芝居のやり方を教えていくところは、師が実際に弟子に稽古をつけているところを思い浮かべてしまった。特に仲蔵が淀五郎の芝居を見る場面。「天災」とはうってかわって、顔の表情やキセルを持つ仕草だけで、仲蔵が淀五郎にもつ感情の変化をキッチリと表現していたのには感動。この場面を見るだけでもこの会に来た甲斐があったと思う。

失礼ながら、いままで当代6代目春風亭柳朝師や飛ぶ鳥を落とす勢いの春風亭一之輔さんの師匠という認識しか持っていなかった一朝師。けれど今回の高座を聴いて、わたしにとっては雲助師と並ぶ落語の上でのアイドルがもうひとり増えた。

*1:お内儀さんは五代目片岡市蔵の娘

カレーでない、カレー、松屋のトマトカレー

2009年8月19日

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わたしは食べ物にそれほど思い入れはありません。有名なラーメン屋の行列に並んでまでラーメンを食べようとも思わないし、これだけは食べておかないといられない、というものもない。先週の土曜日、たまたま東京駅のエキナカを歩いていたら、大勢の行列を見たので帰省列車の切符でも買うために並んでいるかな、と思ったら、何のことはエキナカのケーキ屋かなんかのケーキを買うために並んでいるのでした。また以前、アメリカの狂牛病の影響で吉野家の牛丼が販売中止になって、しばらく経った後復活したときまだ数量限定で販売再開されて、ネットで「吉牛(吉野家の牛丼)は日本の国民食ですからね」「家に持って帰って冷凍保存しますよ」なんて声を聞いたとき、まともなもとをちゃんとたべてないの?と思ったこともありました。

そんなわたしも、去年から今年にかけて、生活が荒れたというわけではないけれど、恥ずかしながら食べる物はコンビニ弁当ばかりということがありました。。確かにコンビニの弁当は作る手間がないので便利ですが、カロリー過多になりがちだし、なにより甘いものに目のないわたしは、コンビニによって弁当だけを買って帰るということはできません。それ以外のモノ、菓子パンやその他、何かしらの甘いものを買って帰ってしまうのです。

そのためからか、あるマイミクさんから面と向かって「太ったんじゃない?」と言われず、メールでそっと言われたときには、さすがのわたしも「あー、なんとかしなきゃいけないなー。」と思いつつ、そして訓練校入学前の健康診断で高血圧気味と注意されたとき、食生活を変えようと思い切って決めました。それからは、ごはん一杯と味噌汁、それに何かしらのおかずという食生活に変え、塩分を取りすぎるな、という医者からの忠告を受けつつ、何となく身体の調子も良くなっているような感じもします。

ところが、最近これはうまい!、ハマる!と思える食べ物を見つけてしまいました。それは松屋で最近販売開始された「フレッシュトマトカレー」。

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この松屋の「フレッシュトマトカレー」、カレーとは名乗っているものの、カレー粉のカの字も入ってはいません。どちらかというとスパゲッティにつかうミートソースがご飯にかかっている感じ。もっと正確にいうとこれともちがう。おそらくわたしの創造では、オリーブオイルでニンニクとタマネギを炒める。色が付いていいにおいがしてきたら、鶏の胸肉を入れて軽く炒めて、そのあと皮を湯むきしてざく切りしたまだ青臭いトマトを炒めつつ塩を少々、香り付けにローリエを煮込む。それでできあがりなのじゃないか、と思っています。もしかしたら出来上がる寸前に粉チーズを入れているかもしれません。ミートソースとは違って完熟したトマトホールを使っていないことで、また普通のカレーと違ってカレー粉を全く使っていないので、若いトマト独特の酸っぱさがどこか夏っぽい涼しさを思わせていいですね。それと値段がなによりリーズナブル。並盛り味噌汁付きで290円。これはランチ激戦区の飯田橋界隈でも最安値に違いありません。ま、自分の身体を考える人からすれば、ジャンクフードと同列なのかもしれないし、確かにこれほどコストを安くしているからには、どういう材料を知りたいということもあるけれど、あの味自体は、久しぶりに自分的にいける!と思えるものです。さっきも書いたように、決して自分で作れないようなレシピではないように思えるので、今度自分で作ってみましょうか。

月の家鏡太「粗忽の使者」

2009年8月16日

先の黒門亭が終わって、上野広小路から銀座線で三越前経由、半蔵門線にて半蔵門下車して「せんのは落語会」に行く。「せんのは(千の葉)落語会」は前座さん、お囃子さんも含めすべてが千葉県出身。この会には去年も行っている。*1 千葉県出身である月の家鏡太さんを贔屓にしているマイミクKさんと、開場前にマッタリしようと麹町のヴェローチェへ。そこで会のチケットを渡される。ふと見ると開演時間が午後6時、時計を見ると今は午後6時過ぎ。あちゃー、二人して開演時間を間違えていた。急いで演芸場へ。というわけで、前座開口一番の小んぶさんの最後のほうで入場。

8月16日 せんのは落語会@国立演芸場

柳家小んぶ  子ほめ

柳家三之助  棒鱈

月の家鏡太  粗忽の使者

金原亭馬治  百川

~仲入り~

春風亭一之輔 鷺とり

立川吉幸   野ざらし

■柳家小んぶ 子ほめ

という理由のため、最後のほうしか見られなかったが、去年の今頃よりは格段に上手くなっている。

■柳家三之助 棒鱈

来春真打ちになるだけあって、巧いのだろう。でもただそれだけ。巧いのと面白いのとが違うという見本みたいな高座。それと高座から「上から目線」というのを何故か感じてしまった。同じ「棒鱈」だったら、歌奴師や喬の字さんの方が数段、面白い。

■月の家鏡太 粗忽の使者

眼鏡をかけて古典をやる噺家さんもごく少数派だし、マクラであっても途中で立ちあがる噺家さんも珍しいだろう。でもこれも落語なのだ。喬太郎師はかつてこう言ったことがある。もしかしたら喬太郎師が何方から聞いた言葉かもしれないが、それは座布団の端、どこかに触っていれば落語、ということ。白鳥師なんて座布団にヘッドロックをかけるじゃないですか。それでも座布団には触っている。鏡太さんの噺もその点で言えば、立派な落語であり。わたしは好きですよ、鏡太さんの高座。当たり前の噺を教わったそのままに演じている高座なんかよりは、ずっと面白い。鏡太さんの古典は、全編にわたって今と通じるところがあって、たとえばこの「粗忽の使者」なら、現代の上司と部下というのに置き換えて聴くことが出来るし、それがまた可笑しさを倍増させるのですねー。眼鏡だって、古典落語の世界と今とを繋ぐ架け橋としては、いい小道具になるかもしれない。ただ「粗忽の使者」という噺は途中ダレるところがあるので、そこが刈り込んでいれば、もっと面白くなったかも。それはともかく、鏡太さんの落語のセンスは、けっして落語という芸能の敷居を高くしていないところがいいんですね。もっと落語ファンにきいてもらいたいし、高座の場を多くすればきっとファンが付いてくると思います。

■金原亭馬治 百川

馬治さんも好きな二つ目さんだけれども、なかなか聴く機会がない。ひさしぶりに聴いた(去年のこの会以来)。相変わらず真面目な高座で、溢れ出る汗を拭き拭き熱演。でも見れば見るほど、大師匠先代馬生師に似てるなー。

■春風亭一之輔 鷺取り

珍しく袴をはいて登場した一之輔さん。そして会場を見渡して「袴をはいてきたからって、特別なことがあるっていうことじゃありません」「千葉県出身というだけで、それ以外何の関係もありませんから」「この会が終わったからといって、別に打ち上げに行くわけでもありません」と二言、三言。何だか会場の雰囲気を一見して理解したようだ。で、なんか会場に締まりがないなー、といってもう一度袖から登場する。やっぱり、一之輔さんは毒がある。出身地のご贔屓さんを相手にしたこのような会でもそれをブンブンまき散らす。この「せんのは落語会」という、何となくまとまりのない雰囲気に喝!を入れていたようだった。そして、とっても下らない噺ですからとことわって、ネタだしされている「鷺とり」へ。聴いてみたら、ホントにとっても下らないので、この噺を知らない人は、下のウィキペディアの項を読んだ方がいい。

鷺とり – Wikipedia

投げやりといっては失礼かも知らないけれど、多少ぶっきらぼうに演じつつ、何故か一体感に欠ける高座と客席に爆笑を巻き起こしていた。噺の内容や出来そのものを云々するより、これこぞ一之輔!という存在感を十分に味わえた一席だった。

■立川吉幸 野ざらし

だめだろう、8月6日に教わったばかりでまだ「上げて貰っていない」噺をこれからやります、なんて自分から言っては。しかもネタだしするこの会で、ネタおろしの噺「野ざらし」を選んだ上での話である。それだけで客は聴く気を失ってしまう。このひとことで興味が無くなってしまった。高座に上がる以前の問題。

一之輔さんがいうように、どこか一体感とキチッとしまったところなあまりない会だったが、群れから抜け出た一之輔さんの実力と、自分の落語に真摯に取り組み高座に臨んで鏡太さん、馬治さんの姿を拝見することが出来たのが収穫だった。

三遊亭金八「不動坊」

2009年8月16日

8月15日 黒門亭2部@上野広小路・落語協会2F

柳家おじさん 子ほめ

林家彦丸   質屋庫

三遊亭金八  不動坊

~仲入り~

林家正雀   江島屋騒動

マイミクKさんと一緒にこの日の夜、贔屓にしている月の家鏡太さんが高座にあがる「せんのは落語会」に行くので、その前に昼間何か落語を観ようということで、黒門亭に行くことにした。今週は2部が怪談特集。今回は主任で正雀師が「江島屋騒動」を公演した。開演30分前の2時半に間に合えばいいだろうと、二人で上野松坂屋の食堂でゆっくり食事をして会場にいくと、ギリギリで中に入ることができた。おー、正雀師の怪談噺、結構人気があるのですね。なかでは、この日高座に上がる金八師が自ら、部屋の中で暗幕を取り付けている。座敷の一部にガムテープを貼って、どうやらにお化けが登場するらしい。

■柳家おじさん 子ほめ

初めて観た権太楼師のところに入門した前座さん。「おじさん」という前座名なのでどういう人なのかとおもっていた。入門当時は「ごん六」という名前がついていたらしいが、途中でなぜか「おじさん」に。理由は不明。確かに落語協会のプロフィールをみるとおじさんですね。*1 たん丈さんにつぐのかなあ。ちなみに金八師とは6つしか年齢が違わないそうだ。高座のほうは斜里慣れているという感じ。天狗連でやってきたのだろうか。ただし噺の途中で上下を間違えたままで最後まで。やっぱり左右反転したままの子ほめは落ち着かない。

■林家彦丸 質屋庫

この噺、大店の旦那が庫に化け物が出てくる訳を番頭に話す場面や、熊五郎が旦那にシクジリの言い訳を話す場面はダレるところなのだが、彦丸さんの口調はテンポがよく、メリハリがあるので聴いていて厭きることはない。後半、番頭と熊五郎が蔵の中を覗いて、帯や羽織が相撲を取っているところ、菅原道真がとうじょうするところは、もっと可笑しくやってもよかったとも思った。ちょっとアッサリめ。これも正雀一門の特徴かもしれないが。

■三遊亭金八 不動坊

この会はネタだしされているため、落語協会の事務局と打ち合わせを前もってするという。この日金八師は「お化け長屋」をネタだししていたのだが。その打ち合わせの時、師は「お化け長屋とかいいんじゃないですかね」といっただけで、ちゃんと「お化け長屋」をやるといったわけではないらしい。ということで、「不動坊」へ。これが、意外なことにといっては失礼だが、おもしろかった。大柄でガッチリしたタイプの師は、こういう動きのある噺に向いているせいもあるかもしれない。またキチッとした噺の中に、ちゃんのピントのあったクスグリをしっかり入れていて、聴いているものを気持を離さないのがいい。「不動坊」といえば権太楼師の高座がすぐに思い浮かべるけれど、この金八師の高座もわたしのなかではベストの高座。

金八師の高座のあと、彦丸さんの時に剥がれ堕ちてしまった暗幕を、総出でつけ直そうとするが、うまくいかず結局部屋の中は明るいままで、正雀師の「江島屋騒動」へ。

■林家正雀 江島屋騒動

この噺、兄弟子ある橘家師に教わったという。その文蔵師は先代馬生師から教わったそうだ。しかしどなたかから「馬生の『江島屋』はダメだ」と言われて、江島屋といえば今輔、といわれた、ちょうど今の落語協会の建物の目の前に住んでいた、五代目古今亭今輔師に稽古をつけてもらったという。ただし今輔師は1976年に亡くなっているので、正雀師が前座のときに習ったのか。ちょっとこの辺は師の話が曖昧でハッキリしない。

冒頭、この話のキーワードである「イカモノ」の説明をする。つまり「イカがわしいモノ」の略。昔、呉服屋が火事になる、水を被ったり煙を浴びた反物は針が通らないので、それを安く買ってノリで貼り付けて着物に仕立てて売ったという。外見上は普通の着物にみえるが、完全な偽装モノ。それで商売をしていた江島屋、そのイカモノの花嫁衣装を買った娘の悲劇が怪談となっていく。ところでこの話、江島屋の番頭金兵衞が老婆の家に止まるところの場面は、同じ圓朝作の「鰍澤」そのままなんですね。話のほうは最後いきなり太鼓が鳴り響き、前座サンだろう(市也さん?)が扮した幽霊が明るい中に登場したのは、ビックリしたのと同時にちょっと滑稽だった。そのためだろうか、この日の正雀師、会場の準備がうまくいってなかったせいか、ちょっと集中力に欠けていたところがあるように思えたのが残念。

喬太郎が次にやりたいもの。

2009年8月15日

先日の独演会の最後の質問コーナーで語っていたこと。それは「大阪屋花鳥」。先代馬生師が演じた。音源も残っている。いまではめったにやらないが、先代の弟子、むかし家今松師がやることがあるそうだ。*1

【粗筋】

 天保年間、無役の旗本である梅津長門(うめつながと)は、仕事もないが父の残した長屋などの上がりで何不自由なく暮らしていた。悪友に誘われて吉原に行くと、大阪屋という店に上がり、相方となった花魁(おいらん)・花鳥と相思相愛の仲になった。ここへ通うようになった梅津は、金に困ってとうとう長屋まで手放してしまう。親類にも見放されると、金に困って大音寺前で町人を斬り殺して2百両を奪い取る。花鳥に会いに行ったが、殺しの現場を目明かしの手先に見られていたのですぐに役人が吉原へ。周りは鉄漿溝(おはぐろどぶ)、出口は大門しかない。手が回ったことを知った梅津は覚悟を決めるが、花鳥は彼を逃がすために火をつけることを思いつく。次々と行灯を倒して火事を出し、吉原大火の混乱に紛れて逃げ出した梅津は、上野の森へと逃れて行きます。

大阪屋花鳥

最近、物語性を重視するように見える喬太郎師がやりたそうなピカレスクロマン。とくに最後の吉原炎上の場面は、例の「創作落語@にぎわい座」のラスト港崎(みよさき)遊郭炎上のヒントになったようにも思える。

もともと三遊亭圓朝と同時代を生きた、柳派における近代落語の祖、初代談州楼燕枝(だんしゅうろう えんし)と講談の伊東花楽が合作した「島千鳥沖津白浪(しまちどりおきつしらなみ)」の一説。講談ではいまでも残っているというが、やはり講談ネタで、オチはない。だとすれば、やはり去年喬太郎師が演じた圓朝作「双蝶々」のようなフィルムノワール落語版になるのか。先代馬生師の音源も聴いたが、あちらは師の「お富与三郎」と同じく独特の雰囲気で淡々と語っていくけれども、もし喬太郎師がやるとすれば、「双蝶々」や「牡丹灯籠」と同じように迫力のあるものになるのでは、と思うのだが。

それにしても、ここで師が語っていたのは、ここで圓朝物に一段落つけて、今度は柳派のルーツを探ってみたいという。これまで流派を飛び越えて、落語の物語性というものにあくなき追求をやってきた師だが、それにさらに磨きをかけようというのか。またこの「落語の持つ物語性の追求」ということについては、師匠さん喬師が圓生師の十八番「雪の瀬川」や「髪結新三」をやることについても、何かしらの影響を与えていたかもしれない。もちろん「雪の瀬川」は師によって以前から高座にかかっているし、音源も発売されているけれど、こんなところに師匠と弟子の、因縁と言ってはおかしいけれど、興味深い繋がりがあるのではないだろうか。

大阪屋花鳥

大阪屋花鳥

柳家喬太郎 名演集2 金明竹/三味線栗毛

柳家喬太郎 名演集2 金明竹/三味線栗毛

柳家さん喬 名演集5 雪の瀬川

柳家さん喬 名演集5 雪の瀬川

*1:岡本綺堂も「半七捕物帳」でその名も「大阪屋花鳥」というタイトルで、この噺を基にした一編をかいている。http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1013_15026.html

喬太郎の「牡丹灯籠」愛と欲の人間ドラマ

2009年8月13日

8月12日 柳家喬太郎独演会「葉月」@みたか井心亭

三遊亭圓朝作「牡丹灯籠」

お露新三郎~お札はがし

仲入り

栗橋宿~お峰殺し~関口屋のゆすり

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舞台はそろっていた。

仲入り前、約1時間20分、仲入り後、約1時間、あわせて2時間20分弱の長講、井心亭が喬太郎師の話芸に自然の効果音をもたらす。部屋に置かれた扇風機が掛け軸の軸をカタカタと鳴らし、秋を思わせる夜風が網戸を自然に開ける。蝉は光を求めて硝子窓を叩き、虫は静かに音を奏でる。それらは時に絡みついた緊張の糸をほぐすクスグリでなり、は登場人物の心情を裏打ちする鳴り物になった。まさに井心亭は「牡丹灯籠」という噺を聴くには、これ以上にない舞台装置。そこで喬太郎師は人間がもつ愛欲の大河ドラマを語りきった。

JR三鷹駅からあるいて10分ほど。全くの住宅街にあるみたか井心亭。百人も入れば一杯になる座敷に、喬太郎師の噺を聴くために集まった客が会場でそれぞれに配られた団扇で涼をとっている。あいにく知らなかったのだが、この日「牡丹灯籠」とネタだしされていた。という。わたしは演目を会場に来て初めて知って、もしかしたら通し?かと思ったが、その予感がいい方に当たったのである。前座さんが会場にいる様子もなく、やがてタクシーで来た喬太郎師も一人で来たので、「ああ、今日は完全なるひとり会だ」と確信した。

開演時間になり出囃子がなる。出囃子が「まかしょ」ではない。何という曲だろうと思っていると、鮮やかな夏色ブルーの羽織にこの季節らしいきものを着た師が高座にあがった。

マクラはこのみたか井心亭のこと。いつもなら二つ目さんや後輩の真打ちをゲストで迎える。その顔付けもむずかしい。噺で選ぶなら白酒、三三。酒で選ぶなら文左衛門、あー、どうでもいいや、と思ったら天どん、百栄(!)だそう。今回はたまたま師匠一人でということに。話はそこから定席の顔付けについて。そして定席の席亭、そしてアマチュア席亭さんのことにも及んだ。話は逸れるが、最近つくづく落語会を主催する席亭さんのフットワークの良さにつくづく感心する。わたしたち落語ファンは、あなたたちがいるから、常にあたらしい噺家さんを知ることができ、それまで知らなかった噺家さんの別の一面を知ることができるのだ。

話を「牡丹灯籠」にもどそう。「牡丹灯籠」いえば幽霊噺・怪談、だが、冒頭にも書いたように、喬太郎師が高座にかけると人間の愛欲の物語になる。登場人物は、誰一人まともな人間はいない。お露と新三郎は人間関係が苦手な引きこもりだし、お峰、伴蔵はゆすりたかりの常習夫婦、お国、源三郎は不倫、主人殺しの逃亡カップルだ。新三郎に助力する人相見の白翁堂勇斎にしても、新幡随院の和尚にしても、どこか他人事で冷淡、人間的な暖かさは感じない。こんな非人間的な連中を喬太郎師がどう描くかに興味がわいた。

仲入り前のエピソードは対照的なカップルがメイン。前半のお露新三郎は奇妙なカップルだ。喬太郎師はインターミッション的な途中の入れごとで、「これが相思相愛の物語だからいいですけど、これが一人片方だったら、完全なストーカーですよ」といった。だからだろうか、師はこの一般的に純愛とされるお露新三郎の物語をホラーチックに描いている。たとえば新三郎が幇間医者に連れられて行く柳橋の寮。お露は襖の隙間から新三郎を垣間見るが、そこには無垢なお露など存在しない。また舟で柳橋の寮の近くまで行った新三郎が、夢現の中でお露から貰った文箱の蓋に気がつくところの恐怖の顔などは、知らぬ間にうしろからそっと頬を撫でられるような不気味さがある。同じ舟の上ということで「宮戸川」後半を思い出してしまうが、ここで師が演じる二人は、悪夢の中に登場する人間のように眼が死んでいて、およそ人間性が少しも感じられない。「牡丹灯籠」といえば思い出す、あの駒下駄が鳴らす音もそう。あくまでも無表情で気持もこもっていない。ここが一番の特徴で、これは「お札はがし」の場でも活きてくるが、少なくとも一般的な悲恋物語とは一線を画す演出法ではある。

いっぽうお峰・伴蔵は俗物カップルだ。その分、お露新三郎よりは人間的。もっとも笑いの少ない(もっとも仲入り前の「お露新三郎~お札はがし」では、喬太郎師は聴いている人に厭きさせないように、アドリブでのクスグリを入れてはいたが)噺のなかで、女房のお峰は、「栗橋宿」に登場する久蔵とともにコメディリリーフ役を買って出ているが、そこには伴蔵には何の感情も持たない、強欲で利己的な人間と描いている。伴蔵に、死霊となったお露とお米にお札はがしと海音如来の仏像を奪うかわりに百両という金を貰うように、強制するのが彼女である。あくまで主導権は彼女なのだが、伴蔵も「甲斐性もない」と女房に言われながらも、大口を叩くという見栄っ張りな部分もあるが、「お札はがし」ではそういったコメディ調のやり取りが、お露が新三郎の家に忍び入る非人間的な気味悪さと対照的に描かれて、話としてはまだ救いがあるように思える・

これが「栗橋宿」に噺が進むと、途端に話の色が変わってくる。仲入り後、喬太郎師は仲入り前とガラッと変えて、黒紋付きの羽織に黒縞のきもの。黒が基調の出で立ちに、それまでの「お露新三郎」「お札はがし」には無かった暗くて暴力的な、雰囲気を漂わせてくる。黒ずくめということで、どこかタランティーノの「レザボアドックス」さえ連想させる。そして久蔵の話を聴くお峰は、あくまでもクールだがその実は伴蔵に対する悋気の気持で煮えくりかえっている。この場面は、それまで聴いてきた師の「栗橋宿」とは違って念入りに描かれていて、お峰の性悪な面がより強調されていた。が、久蔵がお国との関係をすべて告白した後、二人の立場は逆転する久蔵が主でお峰が従になるのだが、この場面転換では濡れ場を思わせるやり取りもあって、なかなか映画的である。そしてお峰殺しの場面。こういっては不謹慎かもしれないが、喬太郎師が演じる殺人の場面はあくまでも淡々としていて、現実的。例えば伴蔵がお峰を袈裟がけに斬る場面でも、「バサッ」という擬音を前後の台詞より小さめにいうことで、リアルな殺陣とともに人殺しの残虐性が眼前に迫ってくる。特に今回は、虫の息のお峰が伴蔵に取りすがるのだが、そのとき伴蔵は彼女の指、一本一本切り落とす。これは昨年観た同じ圓朝作の「双蝶々」における主人公長吉の丁稚殺害の場面と重なり、「牡丹灯籠」のなかでもわたしにとっては、もっとも印象的な場面。「お札はがし」に代表されるような幽霊・怪談噺のような超自然現象より、現実に起こっている殺人のほうが身に迫り恐怖を感じる場面でもある。

その後、最終章というべき「関口屋のゆすり」の場面になっていく。ここでは冒頭、惨殺されたお峰が関口屋の奉公人たちに取り憑く場面が続くが、それは前段の陰惨な場面の中和剤として、多少コミカルに演じられた。むしろ見せ場は何といっても、伴蔵がドスの利いた啖呵を切るところ。ちなみに圓朝物では悪党がこういった啖呵を切る場面が幾つもあって、しかもそれが噺のクライマックスにもってくることが多々ある。圓朝物を得意としている雲助師も良くやるので、それを聴き慣れている人なら、その芝居かがった喋りを聴いたことがあるかもしれない。高座が終わった後の質問コーナーで喬太郎師は、圓朝物のレアな噺をやっている噺家として、むかし家今松師と雲助師を上げていた。そのことからみて個人的には、圓朝物をする上では雲助師に影響を受けていると思うのだが、どうだろう。少なくとも去年の喬太郎師による「双蝶々」のラストを観た人はその気持ちを強くするに違いないと思う。観ていない人にとっては、仲入り前の怪談劇、仲入り後の殺人劇と比べて、迫力という点では劣るかもしれないけれど、その啖呵に、伴蔵という人間性をこれっぽっちも感じさせない(ちなみに「双蝶々」の主人公、長吉はラストで自分からお縄にかかり獄門台にかかる)一人の男が成り上がった姿、ピカレスクロマンとしては、そのラストに相応しいものだった。

先月、横浜にぎわい座で聴いた「創作落語」は喬太郎師自身によって噺の構成、ストーリーが練りに練られたもの。そこでわたしは、ラストに向かって二つの異なる噺が一つにまとまる「喬太郎マジック」を、その話芸で堪能した。今回は、ある意味、喬太郎師にとってはルーツというか、「神」に近い存在という三遊亭圓朝が作り上げて既に完成された物語の中で、どう人物造形していくか、という別の意味での「喬太郎マジック」を、またその話芸で十二分に堪能できた2時間20分の長講だった。

一之輔「らくだ」ふたたび

2009年8月7日

8月6日 第336回日本演芸若手研精会@国立演芸場

古今亭志ん坊 道灌

柳亭こみち  壺算

三笑亭夢吉  五人男

瀧川鯉橋   蒟蒻問答

~仲入り~

入船亭遊一  将棋の殿様

春風亭一之輔 らくだ

開場が夕方の6時半だったから、5時半にJRの四ッ谷駅を出れば十分に間に合うだろうと、ゆっくり歩いていき、途中麹町の立ち食いそば屋で大もりを食べて、半蔵門駅そばのマックでひと休みしていたら、窓の外を研賛会の常連さんが何人か歩いていく。慌てて後を付いて行き、演芸場に到着すると、6時半前に既に開場されていて、ロビーではお弁当の花盛りだった。席は後方から3,4番目上手側に座る。席はうしろでも国立演芸場だから噺家さんの声も十分通るし、見やすい。いや、後ろのほうが動きの多い高座は、その動きのひとつひとつがわかっていい。

■古今亭志ん坊 「道灌」

極薄いミントグリーンの着物で登場した志ん坊さん。ちょっと遅いなー、と思うほどのテンポで話を進める。丁寧ではあるけれど、これでは少し間延びしてしまう。この会は前座さんでもわりあい時間をもらえるのでその配分を間違えたか。それに客席の笑いも少なかった。これはそのテンポの遅さのせいか。後半それに気がついたのか、多少テンポを早めたとは思うけれど、時間切れで端折り気味になった。

■柳亭こみち 「壺算」

マクラは自動販売機で延々ジュースを買った話、直接ネタに結びつくわけではないが、「何故か騙された話」としては本題と巧みにリンクしている。会が終わった後、たまたま出会ったマイミクさんが「こみちさんって、こんな話し方してたっけ?」というようなことを言っていたけれど、それはこの「壺算」という話が、いわゆる「オウム返し」の話で、噺の中で同じことを何度も繰り返すから、どちらかというと会話にねちっこい印象を聴く者に与える噺。だから、今日のこみちさんの口調は普段と違って、ねちっこく聞こえたのかもしれない。あと、これはあくまで個人的印象だが、今日はお化粧がちょっと違ったみたい。女流の場合それだけでも、随分客の印象はかわる。壺をだまし取ろうする男連中のやりとりはよかったけれど、騙される番頭がイマイチ。終盤になってようやく間抜けな感じが出て来たが、もうちょっとその表現を強調したほうがよかったと思う。

■三笑亭夢吉 「五人男」

マクラだけ聴けば、だれでも間違いなく、「七段目」か「蛙茶番」と思う。とくに落語協会の寄席や落語会にだけしかいかないファンは。ところがどっこい夢吉さんはこんなところで「芸協」らしさを出す引き出しをもっている。演目は「五人男」。五代目古今亭今輔作の新作。五軒長屋の住人たちが、いつも世話になっている旦那の還暦のお祝いで何か余興をやろうとあつまる。みんなで芝居をやる事になって出し物は「白浪五人男」。有名な芝居でなんとか衣裳も揃えて、配役を決めてお披露目当日になるが、何しろ付け焼刃で、科白は忘れるは途中から歌いだすやらで、芝居はメチャクチャになってそのあげく・・・というもの。いわば「松竹梅」プラス「寝床に登場する長屋の連中が芝居をやった」というような、賑やかで笑いどころの多い噺。実際、長屋の連中がドタバタの芝居をする場面では鳴り物も入り、夢吉さんの芝居の仕草も思いっきりデフォルメされていて、彼にに代表される、芸協の大らかな魅力を持った噺家さんにはピッタリの噺だと思う。ただ、実際に聴いたことはないものの、もともとの今輔師のヴァージョンが戦後の世相をうまくとりいれたものだったそうだが、夢吉さんはそこのところが、巧く整理されていないために、物語の中に突飛にクリーニングや小学唱歌が出て来たりして、これはいつの時代の話なんだ?と思うことがしばしばだった。この辺をうまく構成して、聴く者にとって分かり易くすればもっと面白いものになっただろう。そこだけが残念だった。

■瀧川鯉橋 「蒟蒻問答」

鯉橋さんは久しぶり。前回見た時もこの「蒟蒻問答」だった。鯉橋さんのヴァージョンの特徴はスピーディーなところ。六兵衛さんの如何にも親分肌のところや、八五郎のだらしなさは、他の演者に比べたら物足りないかもしれないが、実際聴くと案外長くノンビリ思えるこの噺が、リズムよくトントン進んでいくのは気持ちがいい。それでも最後の問答の場面では、こちらもこのネタのお約束、大きな仕草が会場を十分に沸かせていた。

■入船亭遊一 「将棋の殿様」

下手な横好き、しかも負けず嫌いの殿様が、家来たちを相手にめちゃくちゃな将棋をする。殿様に勝つことが出来ない家来たちは、負けた罰として次々と殿様による鉄扇の犠牲となってしまう。そこに殿様のわがままを許してはいけないと、家中のご意見番、田中三太夫が殿様を諫めるが・・・。今では喜多八師しかやらない噺。そして粗忽の家来として落語界では有名な田中三太夫さんが、真面目で威厳のある老侍として登場するのも珍しい。勝手な想像で申し訳ないが、もしかしたら遊一さんは喜多八師に稽古をつけてもらったのかもしれない。それはともかく、遊一さんはご本人の性格というか、地がそのまま出るようなタイプの噺家さんという感じがする。なので、口演する噺がそれにピッタリとハマれば、上出来な高座となるが、それが合わないとどこかピントの外れたものとなってしまう。今回の噺も、殿様の子供っぽさ、わがままのところはよく表現されていたし、そこのところで客席の笑いを取っていたけれど、逆にいえば、それだけが目立っていたような気がする。なので、殿様以外の家来にしても、田中三太夫にしてもその描写にちょっと平坦な印象。甘いというか、それらの登場人物にどこかビシッと決まっているところがなかったように思う。

■春風亭一之輔 「らくだ」

このエントリーのタイトルを「一之輔の『らくだ』ふたたび」としたのは、彼のネタおろしを聴いているから*1。その時は当然火屋のサゲまで演じたが、今回は久蔵が半次に魚屋で鮪のブツを買ってこいというところで終わり。普通なら「らくだ」という噺、通しで最後まで聴かないと面白くないわたしだが、今回の一之輔さんの高座、むしろ本寸法のサゲまでやった前回のネタおろしの時よりも数段出来の良い、迫力ある高座だった。

今回は時間にして40分あまり。ほぼ進行も構成も前回と同じだったろう。どこが違ったかといえば、それは二つある。まず一つは、前回ネタおろしの時にはクドイと感じた久蔵と半次、大家、長屋の連中、八百屋の絡みが、うまい具合に整理されて聴きやすくなっていること、同じようなギャグを聴かされて疲れるということがなくなって、スーッと噺の中に入っていける点。もう一つは、久蔵の過去や他者から差別されていることについて、如何に重点が置かれているかということ。一之輔さんの「らくだ」に関していえば、久蔵と大家のやり取りの中や、久蔵が半次に話すモノローグの中にそれが十二分に入れ込んである。特に二つ目の久蔵がいかに他者(この場合は大家)から差別を受けているかという点。これはわたしにとって、「らくだ」という噺の一番の聴き所なのだ。たとえば、久蔵が大家に会いに行く場面。久蔵が入っていくなり大家がいきなり「何だ、畜生め、表から入ってくるな、裏へ回れ、裏へ」という台詞がある。彼の人間性というものを一切否定している。ここで潰された久蔵は、半次の下へ戻って酒を飲んだ途端、その鬱憤を晴らすかのようにウサをぶつけるのだが、ここでの一之輔さんは久蔵の悔しさが聴くものに十二分に伝わるような表現、人物描写をしていた。前回はまだまだ甘くて、下手をすると単なる滑稽な場面となってしまって客席の爆笑をよんでいたが、すくなくともわたしにとって、今回の一之輔さんの高座はあくまでも久蔵の思いがこちらに届く演技をしていた。もちろん会場では久蔵の言動に大笑いしていた人もいたけれど、それは聴く側の受け取り方の違いで、一之輔さんのせいではない。

「らくだ」という噺、久蔵と半次のやりとりに一番の可笑しさがあるように見られている、これが一般的なのだろうけれど、少なくともわたしには、彼ら二人の関係が、敵対するもので最後に立場が逆転してやり込める、というような単純な話には思えない。つまり、一時は道具屋の若旦那といわれながら酒の失敗から堕ちるところまで堕ちてしまい、今では人非人としてしか世間から見られていない男と、暴力でしか自分を他者に対して表現できず自己の殻にずっと閉じこもっていた男との、友情物語として思えてならないのだ。例えば、久蔵が長屋の連中から「仏は仏だ」と言わしめて香典をもらってくる場面や、また彼が何度も半次のまえで家族のことを話す場面では、久蔵自身も半次はどのような思いでそれらを聴いていたことだろう。。わたしの勝手な想像だが、おそらく半次は羨ましいというか、ある種の久蔵に対する憧れの気持を描いていたのではないか。そうでなければ、たとえ久蔵が酒を飲んで態度が急変したとしても、そこはいつもどおり暴力で押さえ込めばいいのだから。そうでなかったのは久蔵に対するシンパシーと、久蔵にあって半次にはない人間性、つまり他者、家族や長屋の連中を思いやる気持に圧倒されたからだ、と思う。そしてまた、それは第三者である観客からすれば、少なくとも心を許していると思われる長屋の連中や、八百屋、ましてや大家にはもちろんだが、彼らにはひとことも自分の家族のことを話していないのに、半次にだけは話しているということでも、明白だろう。

今回、このわたしにとって「らくだ」という噺の、以上のような一番重要なところ、肝となるところを十二分に演じてきってくれた一之輔さん。今はどんな大ネタでも高座に掛ける度に、彼の個性がスポンジに水が染み渡るように噺の隅々まで入っていくようだ。そのことを本当に実感させてくれる高座だった。